ギリシア哲学の古典(2025年3月31~4月4日)

*** 今週の教養 (ギリシャ哲学①)

今週は、論理的思考を確立し、西洋思想の基礎となったギリシャ哲学の古典から5冊紹介する。最初はやはり、ソクラテス。アテネの堕落を批判して権力者から危険視され、紀元前399年に死刑になった。その裁判での弁明である。弟子のプラトンが書いた。冒頭を掲載する。

◎プラトン著「ソクラテスの弁明」(光文社古典新訳文庫から)

第一部 告発への弁明 前置き  アテナイの皆さん、皆さんが私の告発者たちによってどんな目にあわれたか、私は知りません。ですが、私のほうは、あの人たちのおかげであやうく自分自身を忘れるところでした。それほど説得力をもって、彼らは語ったのです。しかし真実は、あの人たちは、いわば何一つ語りませんでした。

語られたたくさんの偽りのなかで、一つ、とりわけ驚いたのは、私が手強い言論の語り手なので、皆さんが私に騙されないように注意すべきだ、と言ったことです。私が手強い語り手などではないことは、どのみち明らかになるものですから、その事実でもってすぐに私に論駁されてしまうのも恥には思わないことが、私には、彼らの最も恥知らずな点だと思われたのです。もしもこの人たちが、真実を語る者のことを「手強い語り手」と呼ぶのでなければ、の話ですが。そういう意味で言っているのなら、彼らとは違う意味で私が「弁論家」であることに同意しましょう。

さて、この人たちは、今言ったように、真実はほとんどなにも語りませんでしたが、あなた方は、私から真実の全てを聞くことになります。でも、ゼウスの神にかけて、アテナイの皆さん、皆さんがお聞きになるのは、この人たちが語ったような美辞麗句で飾り立てられた言論でも、多彩な語句や表現で整えられたものでもなく、思いついた言い方でテキトウに語られるものとなるでしょう。それは、私は自分が語る中身が正しい、と信じているからです。ですから、あなた方はどなたも、これ以外の語り方を期待しないでください。おそらく、皆さん、若い連中のように言論をでっち上げてあなた方の前に進み出るのは、こんな歳になった者にはふさわしくないでしょうから。

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*** 今週の教養 (ギリシャ哲学②)

◎プラトン著「国家」(岩波文庫から)=ソクラテスの処刑をきっかけにプラトンは、正義の実現のために国家を原理的に問い、哲人統治の思想にたどりついた。書き出しを紹介する。

第一巻 一 ソクラテス きのうぼくは、アリストンの息子グラウコンといっしょに、ペイライエウスまで出かけて行った。女神にお祈りをささげるためだったが、もう一つには、そのお祭りが今度初めての催しだったので、どんなふうに行われるものか、見物してみたいという気持ちもあった。

お祭りの行列は、町の人たちもなかなか見事だと思ったが、しかしそれに劣らずひときわ見栄えがしたのは、トラキア人たちが行った行列だった。お参りもすませたし、見物も終わったので、ぼくたちは都(アテナイ)へ向かって引きあげ始めた。するとケパロスの息子ポレマルコスが、家路を急ぎ始めたぼくたちの姿を遠くから見つけて、召使いの子供に、走って行って自分を待つようにお願いしなさいと言いつけた。やがてその子が、後ろからぼくの上着をつかまえて言った。

「ポレマルコスがあなた方に、お待ちになってくださいと言っています」。ぼくはふり向いて、ご主人はどこにいるのか、とたずねた。「あそこです」と召使いの子供は言った。「あとからこちらにやってこられます。どうかお待ちになってください」。「よろしい、お待ちしましょう」とグラコンが答えた。ほどなくしてポレマルコスがやってきた。グラコンの兄のアデイマントス、ニキアスの息子ニケラトス、そのほか何人かの者もいっしょで、みんなお祭りの行列を見物した帰りと見えた。

ポレマルコスが言った。「ソクラテス、お見受けしたところ、どうやらあなた方はここを引きあげるおつもりで、都のほうへ向かい始めたようですね」。「そうお察しのとおり」とぼくは答えた。「われわれがここに総勢何人ひかえているか、あなたの目に入っているのですか?」と彼が言った。「むろん」。「それならあなた方は」と彼は言った。「ここにいる我々よりも強くなるか、それができなければここにとどまるか二つに一つですよ」。

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*** 今週の教養 (ギリシャ哲学③)

◎アリストテレス著「形而上学」(岩波文庫)=アリストテレスは「万学の祖」と言われ、千数百年にわたって西洋の世界観に決定的な影響を与えた。本書は西洋哲学の多くの基本概念を生み出したといわれている。冒頭を紹介する。

第一巻 第一章  すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感覚知覚(感覚)への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用を抜きにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである。しかし、ことにそのうちでも最も愛好されるのは、眼によるそれ(すなわち視覚)である。けだし我々は、ただ単に行為しようとしてだけでなくまったく何事を行為しようともしていない場合にも、見ることを、いわばほかの全ての感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、ほかのいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである。

ところで、動物は(1)自然的に感覚を有するものとして生まれついている。(2)この感覚から記憶力が、ある種の動物には生じないが、あるほかの種の動物には生じてくる。そしてこのゆえに、これらの動物の方が、あの記憶する能のない動物よりもいっそう多く利口でありいっそう多く教わり学ぶに適している。ただし、これらのうちでも、音を聴く能のない動物は、利口ではあるが教わりを学ぶことは出来ない。例えば蜂ごときが、またはその他何かそのような類の動物があれば、それがそうである。しかし、記憶力の他にさらにこの聴の感覚をあわせ有する動物は、教わり学ぶこともできる。

さて、このように、他の諸動物は、表象や記憶で生きているが、経験を具有する者は極めてまれである。しかるに、人間という類の動物は、さらに技術や推理力で生きている。(3)経験が人間に生ずるのは記憶からである。というのは、同じ事柄についての多くの記憶がやがて一つの経験たる力をもたらすからである。

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*** 今週の教養 (ギリシャ哲学④)

◎アリストテレス著「ニコマコス倫理学」(NHK出版)  歴史上初めて書かれた倫理学の書で、「よく生きるための実践」を徹底的に考えた。「徳」に関する考察を紹介する。

徳には、思考に関するものと性格に関するものの2種類がある。思考の徳は、その生まれと成長とを主として「教示」に負っており、経験と時間を要する。性格の徳は、習慣から形成されるのであって、ここから「性格の(エーティーケー)」という呼び名も「習慣(エトス)」という言葉を少し変化させて作られたのである。

性格の徳はどれひとつとして自然によって我々に備わるものではない。なぜなら、自然によって存在するどのようなものも、ほかのあり方をするように習慣づけられることはありえないからである。例えば自然によって下方に落ちるようになっている石は、たとえ人が1万回これを上方に放り投げて習慣づけようとしても、その方向に動くように習慣づけることはできないのである。もろもろの性格の徳が我々に備わるのは、自然によってではなく、また自然に反してでもなく、むしろそれらの徳を受け入れる資質を我々が持っているからであって、習慣を通じて我々は完全なものになるのである。

徳は、さまざまな技術と同様、われわれはまずその行為を現実化することによって身につける。例えば、人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。まさにこれと同様に、正しいことを行うことによって、我々は正しい人になり、節制することによって、節制ある人になり、勇気あることを行うことによって、勇気ある人になるのである。さまざまな国家で行われていることも、この点を示す証拠となる。立法家たちは市民を習慣づけて善き人々にするのであり、そのことがあらゆる立法家の望むところであって、この作業をうまく行わない限り、彼らは自分たちの仕事に失敗する。このような習慣づけにおいてこそ、優れた国と劣悪な国との違いが出てくるのである。

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*** 今週の教養 (ギリシャ哲学⑤)

◎エピクロス著「教説と手紙」(岩波文庫)   人間にとって最高善としての快楽は、ぜいたくな生活や目先の快楽ではなく、自らに満足して心の平静な境地を楽しむ精神的な快楽主義であると説いた。「主要教説」から紹介する。

  1. 至福な不死のものは、彼自身、煩いごとを持たないし、他のものにそれを与えもしない。したがって、怒りだの愛顧だのによって動揺させられることもない。というのは、このようなことはみな、弱者にのみ属することだから。
  2. 死は我々にとって何物でもない。なぜなら死は生物の原始的要素への分解であるが、分解したものは感覚を持たない。しかるに感覚を持たないものは我々にとって何ものでもないからである。
  3. 快の大きさの限界は、苦しみが全く除き去られることである。およそ快の存するところ、快の存する限り、肉体の苦しみもなく、霊魂の悩みもなく、これら二つが一緒にあることもない。
  4. 苦しみは連続的に肉体の内に存するものではない。かえって、極度の苦しみは、極めて短い時間しかそこには存せず、肉体の快を単に超過するだけの苦しみも、幾日となく続くわけではない。長期にわたる病気の場合には、肉体において、快の方が苦しみをさえ凌駕するものである。
  5. 思慮深く美しく正しく生きることなしには、快く生きることもできず、快く生きることなしには、思慮深く美しく正しく生きることもできない。快く生きるということのない人は、思慮深く美しく正しく生きないのである。
  6. 煩いを受けないように人々から自分を守るためには、およそこの目的を達成する手立てとなり得るものはすべて、自然的な善である。