なつかしい1冊(2025年4月14~18日)

*** 今週の教養 (なつかしい1冊①)

毎日新聞の書評欄コラム「なつかしい一冊」から紹介する。著名人が思い出のある本を書いている。池澤夏樹編で2021年に出版された毎日新聞出版の本から選んだ。

◎池澤夏樹・選「オオカミに冬なし」(クルト・リュートゲン作/中野重治訳/岩波書店)  最初に読んだのは1964年の初版のすぐ後だったと思う。僕は19歳だった。フィクションで、原語はドイツ語。1983年の冬は異常に早く来た。北氷洋の捕鯨船はアラスカ最北のバロー岬に集結してから南に帰るのが常だが、帰途に着く前に海が氷結してしまい、200名以上が閉じ込められた。春まで生き延びるのは難しい。アラスカ南部にいた2人の男が救出のプランを立てる。人間の管理下にあるトナカイの群れを食料として届けようというのだ。風雪、地形、寒気、エスキモーとの文化の差、トナカイや犬ぞりの犬たちの服従などなど、いくつもの難問が立ちはだかる。

ほかの冒険の事例が2つ組み込まれている。1871年、失敗終わった北極点到達の試みから隊員たちを救出したエスキモー=ジョーという男の活躍と、1867年にカナダ最北部の滝を見るべく旅に出た2人の男の悲惨な末路。

昔読んだ時はもっぱら冒険の細部に目がいったと覚えている。改めて読み返してみて、作者の力点がむしろ倫理にある事に気付いた。2人の男は何100キロも北で餓死が待つ200人の見知らぬ男たちを救おうという誰もが無理だという試みに立ち上がった。1人の男は過去に勝手な冒険心から負った心の傷を抱えている。旅の途中でも、目の前で死にかけている人や犬を救うか、あるいは大義である200人の救出のため先を急ぐかという選択、今で言うところのトリアージュを迫られる。こういう問題をめぐって2人の男が荒れ狂う吹雪のテントの中でひたすら議論する。

今回の再読では訳者が中野重治であったことに納得した。本書の倫理観はいかにもこの作家・詩人にふさわしい。「今までの生涯に、尊敬する値打ちのあるようなことを、あまりやってきていない」男の前にその機会が「思いもかけずあらわれてきた」のだから「それをとっつかまえなけりゃなりません」と男は言う。この本を読んでから何十年もたって僕は「エンデュアランス号漂流」(新潮文庫)を読んだ。南極点を目指す計画が上陸の時点で破綻。しかし隊長は28名の隊員を全員生きて連れ戻す。これも名著だが、こちらは倫理的葛藤という話題はない。

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*** 今週の教養 (なつかしい1冊②)

◎あさのあつこ・選「人間の絆」(モーム著/中野好夫訳/新潮文庫)  最初に読んだのは高校生の時だったと思う。断定できないのは、この作品が私の10代を濃く彩っているからだ。10代のどこかで出会い、その後忘れることあっても、消え去ることはなく、今に至っている。40年の間に私は少女から大学生になり、社会人になり結婚して親となり、物書きの端くれにぶら下がりながら生きてきた。少女と今とでは、ほとんど別人、外見だけでなく、思考とか感覚とか言葉の選別とか、人や政治や社会や運命や人生やその他もろもろに対する向き合い方とか、すべてが違っている。けれど、「人間の絆」はずっと変わらず手元にあった。いまの書架に収まっているのは文庫版の上下だが、大学生の時に買い求めたものだ。実家の本棚には別の「人間の絆」がしまわれている。

なぜこんなにもこの作品に惹かれるのか。一度ならず考えたことは無論ある。答えはよく分からない。惹かれていると臆面もなく書いたけれど、ではどんなストーリーだったのかと問われれば、言葉に詰まるだろう。そもそも容易にストーリーを語れるような本に、人は引かれたりしない。「面白かった」「つまらなかった」。そんな一言で片付けて脇に押しやる。語れないからこそ、教えられないからこそ、心に深く食い込んでくるのだ。

本物の小説は安易な説明も紹介も拒むけれど、鮮烈な記憶を残す「人間の絆」には、私にとっての鮮烈な2つの光が存在した。1つ目は冒頭部分。まだ幼いフィリップが乳母に連れられて、母の寝室を訪れ、横たわる母の傍らで眠りにつく場面だ。母親は死産をし、命を落としかけている。つまり瀕死の母と死の何も知らない小さな息子との別離から「人間の絆」は始まる。涙も嘆きも普通にあるけれど、少しも湿っていない。夜明けの病室、色彩などほとんどないこの場面が信じられないほど美しいと、10代の私は感じ、驚いた。ほとんどモノクロの陰気な朝をここまで美しく描写できるものかと。

2つ目はビルドレッドという女性。フィリップを翻弄し続ける娼婦だ。そして、私が知った最も魅力的な女だった。自堕落で傲慢で協力的な悪女には人間としての確かな手応えがあった。鮮烈な2つの光に眩みたくて、私は今でも時折「人間の絆」を手に取る。

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*** 今週の教養 (なつかしい1冊③)

◎加藤陽子・選「見るまえに跳べ」(大江健三郎著/新潮文庫)  コロナ禍の巣篭もりの中にあって、太平洋戦争を理解するのに適した文学作品はなんだろうと考えていた。大岡昇平「レイテ戦記」、田中小実昌「ポロポロ」、奥泉光「浪漫的な行軍の記録」。次に太平洋戦争末期の戦争を、人間への内なる暴力として少年の目から捉えた大江健三郎「芽むしり仔撃ち」を選んでゆく。

ここまできて、頭の中に小さな火が灯った。大学入試が終わり結果を待つ間、私はドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」と大江「見るまえに跳べ」を読んでいたのだった。英語期限の慣用句「跳ぶ前に見よ」を逆転させた衝迫力を持つタイトルに惹かれたのだろう。10の短編からなるこの本が初めて読む大江作品だった。本書の中核をなす「見るまえに跳べ」が、必ずしも高い評価を得なかったことは知っている。だが、そのようなことはどうでもよい。人生においては時に、何か永遠に触れたと感じられる幸福な瞬間が訪れるもの。それを大江は「一瞬よりはいくらか長く続く間」と表現するが、初めて大江を読んだ私の時間がまさにそれだった。

娼婦と暮らす東大生の「ぼく」は、ベトナムで戦ってみたいと日々無想し、口にも出してみる。娼婦の情人はベトナム派遣を控えた外国人特派員だった。その彼に、本気なら連れて行くがどうか、と問われる。行けないと答えた「ぼく」は屈服し、これで一生、見るだけで跳べない人生を自分は歩むのかとの思いに沈む。今読み返し、跳べない「ぼく」を描きながらも、作家は跳べと叫んでいたと改めてわかる。大江も後に語っている。むずかしい選択を迫られれば自分は難しい方を選ぶと。「ハックルベリー・フィンの冒険」のハックよろしく、「よろしい、僕は地獄に行こう!」と心に期し、進むのだと。

大江は「万延元年のフットボール」以降、故郷の森に対する、苦しみにも似た憧憬を原動力に、その森を擁する村の過去の歴史を、何度も反復させつつ、100年といった時間のずれを用いて小説を紡いできた。過去の歴史の中に、未来へとつなぐ新たな芽を見出す試みにほかならない。過去を描くことで未来を準備する。これが歴史学の一つの役割だとすれば、私は最高の先達と青春期の読書の中で出会っていたことになる。

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*** 今週の教養 (なつかしい1冊④)

◎若松英輔・選「余白の旅 思索のあと/井上洋治著作選集2」(日本キリスト教団出版局)  人生を変える1冊は確かに存在する。だが、出会った時にそれだとわかるとは限らない。私の場合は違った。この本は著者が53歳になる年に刊行された精神的自叙伝である。著者はカトリック司祭だから霊的自叙伝というべきなのかもしれない。ここでの「余白」は、神の働きの場にほかならない。著者は墨絵の余白を例にして、「余白」の存在論というべき独自の神学を展開している。水墨画家が白い紙に一つの円を描く。するとそこに完全を意味する象徴的な図形が生まれるだけでなく、同時に「余白」が生まれる。むしろ黒く描かれた円が「余白」を現出させたともいえる。世にある物のはたらきと超越者のそれにそのまま当てはまる、というのである。

同質のことは印刷された文字と書物との間でも起こっている。「行間を読む」というように「読む」という行為には、単に文字追い、字義的に理解すること以上の意味があることを私たちは経験的に知っている。人は、場と建築、声と沈黙、時間と永遠にも同質の現象を見出すだろう。この本で著者は、いかにして「余白」に出会い、いかに生きてきたのかを語るよりも、いかに「余白」によって「生かされている」のかを語る。

人はいかに生きるのかと考える時、どこかで人生は自分の思うようになると思い込んでいる。しかし私たちは、思うようにならないという厳粛な事実を感じながら日々、生きている。熟慮しなくてはならないのは、いかに生きるかという意志の問題だけでなく、いかに「生かされているか」という現実にほかならない。それが著者の生の基軸なのである。

当然、人生の真の「主人公」は、自分ではなく、自分を生かしている何ものか、ということになる。著者はそれを神であると言い、その歴史的介入をイエスと呼ぶ。彼はこの本でキリスト者の第一義とは何かをめぐってこう記している。それは「イエスについて知ることではなく、イエスを知ることである。神について語ろうとすることではなく、神を知ることである。そして何かを知るためには、私たちには、その何かの生命に向かって飛び込み、これを受け止めようとする行為が要求される」。知の力によって何か「を」知ることは、表層の認識に過ぎない。人は人生を賭して何か「を」真に認識するところまで行かねばならない。19歳の時、私は著者に出会った。以来、彼は私の無二の師になった。

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*** 今週の教養 (なつかしい1冊⑤)

◎辛酸なめ子・選「方丈記」(鴨長明作/岩波文庫)   「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」。ふとした時に脳内で再生される「方丈記」の一節。高校の古文の教科書で出会ってから、みやびさが漂う無常観に心惹かれ、時々読み返していました。形あるものはいつか壊れ、あらゆるものは変化する、という無常観こそ、コロナ禍の今必要な感覚かもしれません。

著者の鴨長明は、京都・下鴨神社の神職の家に生まれましたが、父が亡くなり、親族の跡目争いに巻き込まれ、結婚や仕事もうまくいかない状況で世をはかなむように。和歌や音楽に癒しを求めながら、ひとり草庵住いで執筆活動。ポータブルな部材で建てた庵は約四畳半の広さ。グランピングやワーケーションの元祖でしょうか。「方丈記」の随所に、家や土地にこだわらないポリシーが感じられます。住まいと住人ははかなさを競い合うようにあっけなく滅びゆくとか、危険な都の中に家を建てるのは無意味だとか、大富豪の屋敷の隣に住むと常に劣等感を抱くなど・・・。

世を憂い、無常観を抱くようになったのは、鴨長明が「安元の大火」「治承の旋風」「養和の飢饉」「疫病の発生」「元暦の大地震」などさまざまな天変地異を体験してきたから。大火で全都の3分の1が焼き尽くされ、旋風で家々は破壊、飢饉からの疫病で誰も彼もが被災者になってしまい、巨大地震で神社仏閣や家屋が倒壊し地割れ発生と、次から次へと災いが発生。地震発生直後、人々は人間の無力さを語りあっていても、しばらく経つと忘れてしまうと書かれていて、これは今の日本人も同じです。天変地異を何度経験しても人間は学べないのでしょうか。

「ヤドカリは小さい貝殻を好む」と鴨長明は生活をスケールダウンし、山中の庵に移住。とは言え育ちが良いからか「竹のスノコ」「黒い革を貼った竹編みの箱」「組み立て式の琵琶」など庵の細部に高級感が漂います。四季折々の自然の中で、50歳も年下の少年と山野を遊び歩く自由人な生活。出家しても「南無阿弥陀仏」を2、3度唱えて終わる、というゆるさがよいです。もはや念仏にも執着しない境地になったのでしょうか。

鴨長明が生きていた頃と同じく、時代の変わり目である今、「方丈記」を読み返すことで新たな生き方のヒントを得られます。そして現代より過酷な世を生き延びた先祖のDNAが今の日本人の中に息づいていると思うと心強く、励まされる本です。