ジェームズ・アレンの「原因と結果の法則」(2024年7月8~12日)

2024.07.13教養講座

*** 今週の教養 (ジェームズ・アレン①)

今週は自己啓発書の原点とされるジェームズ・アレン(1864~1912)の「原因と結果の法則」(サンマーク出版、2003年)を紹介する。アレンは英国生まれの作家で、トルストイの書物に触発されて38歳から著作活動を始めた。本書は1902年に書かれ、自己啓発のバブルとされる。カーネギーやナイチンゲールら多くの著名人に愛読された。今でも世界で読まれ、日本でも稲盛和夫らに影響を与えた。

◎思いと人格①  「人は誰も、内側で考えているとおりの人間である」という古来の金言は、私たちの人格のみならず、人生全般に当てはまる言葉です。私たちは文字どおり、自分が考えているとおりの人生を生きているのです。なかでも人格は、私たちがめぐらせているあらゆる思いの完璧な総和です。植物は種から芽生えます。それは種なくしてはあらわれることができません。そして私たちの行いもまた、内側で密かにめぐらされる思いという種から芽生えます。これもまた、その種がなければあらわれることがありません。意識的に行うことでも、無意識のうちに行うことでも、ひとつとして例外はありません。行いは思いの花であり、喜びや悲しみはその果実です。そうやって私たち人間は、自分自身が育てる、甘い、あるいは苦い果実を収穫し続けるのです。

私たちの人生は、ある確かな法則に従って創られています。私たちがどんな策略を用いようと、その法則を変えることはできません。「原因と結果の法則」は、目に見える物質の世界においても、目に見えない心の世界においても、常に絶対であり、揺らぐことがないのです。私たちの誰もが内心では手にしたいと考えている、気高い神のような人格は、神からの贈り物でもなければ、偶然の産物でもありません。それは、くりかえしめぐらされ続けた、気高く、正しい想いの、自然な結果です。そして、卑しい獣のような人格は、卑しく、誤った思いの、やはり自然な結果です。

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*** 今週の教養 (ジェームズ・アレン②)

◎思いと人格②  私たちは、自分自身の思いによって、自分を素晴らしい人間に作り上げることもできれば、破壊してしまうこともできます。心という思いの工場の中で、私たちは自分自身を破壊するための兵器を作り続けることもできますし、強さと喜びと穏やかさに満ちた美しい人格を創るための優れた道具を作り続けることもできるのです。正しい思いを選んでめぐらし続けることで、私たちは気高い、崇高な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んで巡らし続けることで、獣のような人間へと落下することもできるのです。その両極端の間にはさまざまなレベルの人格があり、人間はそれらの創り手でもあり、主人でもあります。私たちの魂に響くあらゆる美しい真実の中で、次の真実ほどに私たちを喜ばせるものはありません。その中には、私たちに対する神からの信頼と約束が込められています。

「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」。私たち人間は、強さと知と愛を備えた生き物ものです。同時に、自分自身がめぐらす思いの主人になのです。私たちは人生で直面するどんな状況にも賢く対処する能力と、自分自身を望みどおりの人間に創り上げるために使うことができる、変容と再生のための装置を内側に持っています。私たちは、たとえ最も弱い、最も落ちぶれた状態にある時でも、常に自分自身の主人です。ただしその時の私たちは、自分の所帯を誤って治めている、愚かな主人です。

私たちは、自分の人生に深く思いをめぐらし、それを創り上げている法則を自らの手で発見した時から、自分自身の賢い主人になり、自分自身を知的に管理しながら、豊かな実りへと続く思いを次々とめぐらすようになります。その時私たちは、自分自身の意識的な主人となります。私たちがそうなるためにはまず、自分の内側で機能している原因と結果の法則をはっきりと認識しなければなりません。その認識は、自らの試みと経験と分析によってのみもたらされます。「求めよ。さらば与えられん」あるいは「扉はそれをたたくものに開かれる」という絶対法則は、ほかのどんな方向にでもなくこの方向にのみ存在しています。知恵の寺院の扉は、忍耐と飽くなき探究なくしては、決して開かれることがないのです。

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*** 今週の教養 (ジェームズ・アレン③)

◎思いと健康  肉体は心の召使いです。心の中でめぐらされる思いに、常にしたがっています。肉体は、暗く汚れた思いに従って、病気や衰退へと沈んでいくこともすれば、楽しく美しい思いに従い、健康と若さの衣を身にまとうこともします。病気と健康は、環境同様、心の中でめぐらされる思いの明らかなあらわれです。

病的な思いは、病的な肉体を通じて表現します。恐れは人間を弾丸にも劣らぬ速さで殺すことさえあります。別の方法で無数の人々を確実に殺し続けてもいます。病気を恐れながら生きている人たちは、やがてそれを実際に手にする人たちです。あらゆる種類の不安が肉体を混乱させ、混乱した肉体は病気に対して無防備です。汚れた思いは、神経系をズタズタにしてしまいます。強くて清らかで幸せな思いは、活力に満ちた美しい肉体を作り上げます。肉体は繊細で柔軟な装置であり、思いに速やかに反応します。心の中で繰り返しめぐらされて思いは、良いものでも悪いものでも、内容に応じた結果を肉体内で確実に発生させているのです。

いくら食生活を改善しても、自分の心を改めようとしない人間には、効果がありません。しかし、常に清らかな思いをめぐらせるようになった時、人間はもはや病原菌を気遣う必要さえなくなります。その時から人間は自然に体に悪い食べ物を好まなくもなります。きれいな思いは、きれいな習慣を作り出します。悪意、羨望、怒り、不安、失望は、肉体から健康と美しさを奪い去ります。憂鬱の顔は偶然の産物ではありません。憂鬱な心によってつくられます。私は、少女のような輝きと清らかさに満ちた顔を持つ、96歳の女性を知っています。私は、ひどく老け込んで外見を持つ、とても若い男性も知っています。かたや優しく明るい心の結果であり、かたや理性を欠いた思いといらだちの結果です。

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*** 今週の教養 (ジェームズ・アレン④)

◎思いと成功①  成功すること、失敗することのすべてが、私たち自身がめぐらす思いの直接的な結果です。公正な秩序が保たれているこの宇宙内では、いかなる調和の欠如も破壊につながります。私たちの持つ強さも、弱さも、清らかさも、けがれも、私たち自身のものです。私たち自身によってのみ育まれます。強い人間が、弱い人間を助けることができるのは、弱い人間が意欲的に助けを求めている時だけです。その時でさえ、弱い人間は強くならなくてはなりません。

これまで人々はこう言い続けてきました。「搾取する者が存在するために、多くの人たちが奴隷のように生きている」「搾取する者たちはけしからん」。しかし今や、このように言う人々も増えてきました。「奴隷のように生きている人たちがいるために、搾取するものが必要とされている」「奴隷のようにして生きている人たちこそが問題なのだ」。実をいうと、搾取する人たちと搾取される人たちは、互いに協力し合っている人たちなのです。彼らはどちらも、常に苦悩を手にし、責任を相手側に向けています。深い理解の持ち主たちは、搾取する側が誤って用いているパワーと、搾取される側の要素が、同じ法則に従って類似した結果を導き出していることを知っています。

深い愛の持ち主たちは、自分の方こそが被害者だと主張する彼らを眺め、どちら側につくことなく、双方に同等の同情を寄せています。人間はあらゆる身勝手な欲望を放棄している時、搾取する側、される側のどちらにも属していません。その時、人間は真に自由な状態になります。もしあなたが、自分の心と人生を根気強く観察し、分析したならば、弱さとは、そもそも身勝手な欲望から発しているものであるということにも気づくはずです。人間は、価値ある物事を達成するためには、たとえどんなに世俗的な物事の達成であっても、身勝手な欲望の中から抜け出さなくてはなりません。人間は、成功を目指すならば、自分の欲望のかなりの部分を犠牲にしなくてはならないのです。

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*** 今週の教養 (ジェームズ・アレン⑤)

◎思いと成功②  自分の欲望を優先させる人間は、明晰な思いを巡らせず、秩序だった計画も立てられません。自分の真の能力を、発揮することも、開発することもできず、何を試みても失敗するでしょう。自分の心を正しくコントロールする努力を怠っている限り、大きな影響力を及ぼしたり、重要な責任を果たしたりできる地位には決してつくことができません。その限界は、私たち自身が、選び巡らしている想いによって、作り出されているのです。私たちは犠牲を払うことなくして、いかなる進歩も成功も望めません。私たちの成功は、達成をどれだけ強く決意し、計画の上にいかに強く心を固定するかに加えて、自分の欲望をどれだけ犠牲にできるかにかかっています。

宇宙は、表面的にどのように見えようと、貪欲な人間、不正直な人間、不道徳な人間を援助することがありません。宇宙は、慎み深い人間、正直な人間、清らかな人間のみを支え、援助するのです。過去の偉大な教師たちのすべてが、さまざまな言い回しで指摘しています。人間は、自分の心を高め、気高い人間となる努力を続けることで、身をもってこの事実を証明することができます。知的達成は、知識の探求、生命と自然が内包する美と真実の追求に捧げられた、深い想いの結果です。この種の達成は、虚栄心や野望と結びつけられることがありますが、そういった仮定は誤りです。あらゆる知的達成が、粘り強い努力と、非利己的で、純粋な想いの自然な結果にほかなりません。

自己コントロール、決意、けがれのない思い、気高い思い、正しい思いの援助を得て、人間は上昇します。実業でも、知的精神的な達成であっても、あらゆる達成が明確に導かれた思いの結果であり、同じ法則に従い、同じ工程をへて出現します。成功できない人たちは、自分の欲望を犠牲にしていない人たちです。人間は成功を願うならば、相当の自己犠牲を払わなくてはなりません。大きな成功を願うなら、大きな自己犠牲を払わなくてはならないのです。