名言の正体(2024年12月23~27日)

*** 今週の教養 (名言の正体①)

今年最後の教養講座は「名言の正体」(山口智司著、学研新書、2009)で締めくくる。「今日の名言」を毎日届けてきたが、名言にはいろいろ裏があることがわかる。

◎辞世の句ではなかった「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」(松尾芭蕉)  江戸の俳人松尾芭蕉は、多くの名句を残した。足の三里というツボにお灸をすえながら、江戸から東北、北陸回って岐阜の大垣にまで至る約2400キロを、5ヶ月にわたって歩き続けた。行く先々で句を読み、傑作が集められたのが「奥の細道」である。「旅に病んで」は、人生の最後の旅の途中で迎えた大阪御堂筋の旅宿で残した。芭蕉の辞世の句として知られている。

死への旅立ちを前にしたいかにも寂しい句であるが、芭蕉はその翌日に病状を持ち直した。そして以前に作った「清滝や 波に塵なき 夏の月」を推敲し、もう一句詠んでいた。それが「清滝や 波に散り込む 青松葉」である。波打つ大河の中へと、散った青松葉がひらひらと舞い込んでいく情景が目に浮かんでくる。しかし、実際には京都の清滝川付近に松の木立などはない。季節に関わらず、青いまま散っていく松の木を脳裏に浮かべ、死期が近づく自分を重ね合わせたのだろう。芭蕉がなくなったのは、その3日後のことだった。

芭蕉は「夢は枯野を」といった孤独で寂しい心持ちで旅立ったのではなく、清らかな川に流されていく松の葉に、譲り行く命の永遠を感じながら、穏やかにこの世を後にしたのかもしれない。芭蕉は「松島や ああ松島や 松島や」という有名な歌の作者と思われているフシがあるが、それは誤解である。実際の作者は相模国(神奈川県)の狂歌師・田原坊。江戸時代後期に詠んだ「松島や さて松島や 松島や」の「さて」が「ああ」に代わり、奥の細道には松島の句がないことから、「芭蕉があまりの絶景ぶりに感激して、句が思い浮かばずに詠った」と伝えられるようになった。

*** 今週の教養 (名言の正体②)

◎誤解された「参加することに意義がある」(クーベルタン)  このオリンピックの言葉ほど多くの場面で使われるものはないだろう。「まだ力不足ですが、参加することに意義がありますから」という趣旨とされる。しかし、「とりあえず参加しておこう」「力不足でも参加することが大事」というニュアンスの使い方は誤用である。

言葉の主とされているのは国際オリンピック委員会(IOC)の第2代会長を務めたピーエール・ド・クーベルタン。「近代五輪の父」と呼ばれる。1908年ロンドンで開催された第4回大会でのこと。国民感情のぶつかりから、競技場においてイギリスとアメリカが一触即発のムードに包まれていた。アメリカのペンシルベニアからきていたエチュルバート・タルボット司教が参加選手に「五輪で重要なことは、勝利することより、参加したことにあろう」と説教をした。

勝利のみを求めた選手たちの競技への姿勢が見苦しかったということだろう。その言葉を受けて、5日後に大会役員が集まるレセプションで、クーベルタンが「ペンシルベニアの司教が『五輪大会で重要なことは、勝つことではなく参加することである』と述べられたのは、まことに至言である。人生において重要なことは、成功することではなく努力することである。根本的なことは、よく戦ったかどうかにある。このような教えを広めることによって、より寛大な人間性を作り上げることができる」とスピーチをした。勝利か、敗北か。それはあくまでも結果にすぎない。重要なのは最大限努力してよく戦うことなのだというのがクーベルタンの伝えたかったことだ。しかし後世に残ったのは、前半で引用した司教の言葉だけだった。

「参加することに意義がある」というフレーズが広まったのは、1932年の第10回ロサンゼルス大会以降である。選手村の娯楽室に、クーベルタンの言葉として掲げられたのがきっかけだと言われている。せっかくなら、誤解のないようにクーベルタンの言葉の後半部を強調して欲しかった。

*** 今週の教養 (名言の正体③)

◎深い意味がなかった「私はカモメ」(テレシコワ)  歴史に残る偉業が達成された時、名言は生まれやすい。だが、偉業が伝説化され、人物が神格化される過程で、人々の恣意的な解釈が行われることもままあることである。

1963年6月16日、ソ連の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワ少尉が、ボストーク6号で宇宙へと旅立った。アメリカとソ連が宇宙技術を競い合い、マスコミを騒がせていた時代。女性の宇宙飛行は初めてのことであり、世界中が固唾をのんで、その挑戦を見届けた。この名言は、地球との交信の中で、テレシコワが宇宙で最初に発した言葉である。地球軌道上を回りながら、詩的に自らを表現した言葉は、日本人の心をとらえ、流行語にもなった。

だが実は、この「私はカモメ」というセリフには、そんな深い意味はなかったという。ソ連の宇宙船ボストークには、それぞれ呼び名があらかじめつけられていた。テレシコワが乗っていたボストーク6号は「カモメ」を意味する「チャイカ」と呼ばれていた。つまり、テレシコワは交信の際、「こちらはボストーク6号」という意味で「ヤー・チャイカ(こちらはカモメ号)」とコードネームを告げただけだったのである。

それが日本においては、「私はカモメ」という、いささかロマン的な訳をあてがわれてしまったため、拡大解釈されるようになった。チェーホフの作品「かもめ」の中のニーナのセリフとして有名な「私はカモメ、いいえ、私は女優」の影響も大きかっただろう。成し遂げられた偉業が大きければ大きいほど、世間は功労者の言葉から敏感すぎるほど意味を読み取ろうとしてしまう。そうなるのも英雄の宿命かもしれない。

*** 今週の教養 (名言の正体④)

◎平等を説いたのではない「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(福沢諭吉)   福沢諭吉の名前を聞いて思い浮かぶのは、1万円札の肖像、慶応義塾の創立者、そして明治初期の大ベストセラー「学問のすゝめ」に収められたこの名言ではないだろうか。人権派めいた強烈なメッセージだが、諭吉は決して人間は皆平等であると言いたかったわけではない。その後に続く言葉を読めば、それは明らかである。

「広くこの人間世界を見渡すに、賢い人あり、愚かなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様、雲と泥との相違あるに似たる何ぞや。その次第、はなはだ明らかなり。人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりという。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによってできるものなり」

人は生まれながらに同じはずなのに、結果的には、賢者にもなれば愚人にもなり、貧しくもなれば富豪にもなる。生まれながらに貴賤貧富の区別はないのに、ただ学問をしっかりやり知識をつけたものは出世し、無学のものは貧乏となり、下層に属するようになるのである・・・と大意をつかめばこんなところであろうか。

現在でも「勝ち組」と「負け組」との格差が社会問題となっているが、明治時代の貧富の差とは比べ物にならない。それは学力の差から由来しているものであり、自己責任なのだ、と諭吉は厳しく喝破しているのだ。言葉だけを見れば、「人間は誰もが同じ権利を持っているんだ」と危うく感動しそうになるが、本当の意味を知れば、「頑張ったって結果を出せない人間もいるよ」「生まれた環境にもよるだろう」と反論したくなる人も少なくないかもしれない。聞こえのいい言葉だからといって油断してはならない。

*** 今週の教養 (名言の正体⑤)

◎前提がある「ペンは剣より強し」(リットン卿)  権力や暴力に対して言論で立ち向かっていくというジャーナリズムの基本精神としてうたわれる。言葉や思想が人に与える影響は、武力よりも強いという意味だ。活字メディアでよく引用され広く知られているが、実は続きがあって少し意味合いが変わってくる。出典はジョージ・ブルワー・リットン男爵が1839年に書いた戯曲「リシュリュー」。ルイ13世の宰相を務め、近代フランスの基礎を築いた辣腕政治家と知られている人物である。この戯曲では、謀反を前に枢機卿のリシュリューが側近とこんなやり取りをしている。

「私がもっと若ければ、首謀者を切って捨てることができるのに」「今の枢機卿様には、剣よりももっと強い武器があるではございませんか」「そうだな、真に偉大な人間の統治下では、ペンの方が剣よりも強いのだ」――。実際に劇中で使われたセリフでは、「ペンは剣よりも強し」の前にセリフがあり、前提条件となっていた。それが「真に偉大な人間の統治下では」である。その後は、「国を救うのに剣などいらないのだ」と続け、謀反に対して、暴力でなく言論で立ち向かうリシュリューの姿が描かれている。作者のリットン卿は、ケンブリッジ大学を卒業後、ジャーナリストをへて政治家となった。日本史の教科書にも登場するリットン調査団(1932年、国際連盟より満州事変の調査を命ぜられた)の団長ビクター・リットンは、リットン卿の孫である。

我が国が軍国主義をひた走って当時、つまり剣に傾いていた時、リットン卿の孫は警鐘を鳴らしていた事実は、なんとも不思議な巡り合わせである。言論はいつでも武力に勝てるわけではない。それは健全な社会においてのみ実現するのだ。「剣はペンより強し」の時代を繰り返してはならない。わかりやすく覚えやすいフレーズだけが名言として伝わりやすい。しかし、このようにカットされた部分に、重要な前提が内包されていることもある。