枕草子(2024年1月6~10日)
*** 今週の教養 (枕草子①第一段)
新年第一弾の教養講座は、清少納言の「枕草子」で始める。参考文献は角川書店編「枕草子」(2014年)。現代語訳を中心とし、原文は一部短縮している回もある。
◎第一段=王朝の四季絵巻をひもとけば
【現代語訳】春は夜が明ける時。あたりが白んで山の上が明るくなって紫の雲が細くたなびいている。夏は夜。月が出ていればもちろん、闇夜でも蛍がいっぱい飛び交っている。一つ二つほのかに光っていき、雨の降るのもいい。
秋は夕暮れ。夕日が山の稜線に沈む頃、カラスがねぐらに帰ろうと急ぎ心にしみる。雁で列を連ね、小さく見えるのはなかなかに面白い。日が落ち風の音、虫の音などが奏でるのは言葉につくせない。冬は早朝。雪が降り積もっているのはもちろん、霜が降りていてもそうでなくても、張りつめたように寒い朝、火を起こして炭火を運んで回るのもいかにも冬の早朝らしい。昼になって寒さが緩むと、炭火も白く灰をかぶって間の抜けた感じだ。
【原文】春は曙。やうやう白くなりゆく、山際少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛び違いたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。秋は、夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた、言うべきにあらず。冬は、早朝(つとめて)。雪の降りたるは、言うべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ゆるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶の火も灰がちになりて、わろし。
【解説】様々な対比が特徴だ。季節、聴覚、視覚、皮膚感覚の対比があり、光と色の変化で貫かれている。「をかし」は、平安時代の文学的・美的理念。「明朗で知性的な感覚美」。室町時代になると、滑稽美を帯びてくる。「あはれ」は「しみじみとしたおもむき」、「わろし」は「よくない」。
*** 今週の教養 (枕草子②第二段)
◎第二段=春を迎える喜び―若菜摘み
【現代語訳】正月七日、消え残る雪の中から若菜を摘む。青々としていて、いつもならそんなものは近くで見ない高貴な御殿の中でも、大騒ぎしているのは本当に面白い。「白馬の節会」(あおうまのせちえ=官位昇進の儀式)を見ようと、家庭の女たちもきれいに牛車をしたてて宮中に出かける。内裏の東の門の敷居を通る時、牛車が揺れて頭をぶつけあって、髪にさした櫛も落ち、用心していないから折れたりなどして皆で笑うのもまた面白い。
警護の詰め所のところに殿上人(昇殿を許された者)がたくさん立っていて、ふざけて舎人(召使い)の弓を取り、馬を驚かして笑う。牛車のすだれの隙間からやっとのぞいたら、目隠し用の庭塀などが見えて、女官などが行き来しているのが、とても興味深い。いったいどんな幸運に生まれついた人が、宮中で自由気ままにふるまえるのだろうと思う。
と言ってもこうして見えるのは狭い範囲だから、舎人の顔の地肌など本当に黒くて、おしろいがのっていないところは、雪の下から土がまだらに見えるようで見苦しいし、馬が跳ねて騒ぐのも怖そうに見えて、つい車の中に身を引いてしまい、よくは見えない。
【原文】七日、雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの目近からぬ所にもて騒ぎたるこそ、をかしけれ。白馬見にとて、里人は、車清げに仕立てて見に行く。中のとじきみ引く過ほど、頭、ひとところに揺るぎあひ、刺櫛も落ち、用意せねば折れなどして笑うも、またをかし。左衛門の陣のもとに、殿上人などあまた立ちて、舎人の弓どもを取りて、馬ども驚かし笑うを、はつかに見入れたれば、立じとみなどの見ゆるに、主殿司・女官などの行き違いたるこそ、をかしけれ。(以下略)
【解説】当時は陰暦なので立春(今の2月初め)とともに新年を迎えるが、春とは言っても名ばかりである。冬の寒さに耐え春を待ちかねた人々は、野に出て、雪の間に芽吹いた若菜を摘む。七日の若菜摘みは今も七草粥として伝わる。この日宮中では、官位昇進の儀式があり、その後は21頭の白馬の行進があった。これを見ると、一年中の邪気が払われるという。七草は中国からの伝来。当時の女性は見物に行くといっても、牛車の中からすだれ越しにのぞくだけである。女性は表に出ない存在だった。
*** 今週の教養 (枕草子③第二段)
◎第二段=小正月―高貴な方も無礼講
【現代語訳】十五日、小豆粥の祝い膳をお出しした後、粥を炊いた薪をちょっと隠して、女房たちが互いにおしりを打とうとすきを狙い、打たれまいと用心して、いつも後ろに気をつけているのもおもしろい。一体どうやったのか、うまく打ったのでみんな大笑いしているのは、ひどく陽気なものだ。打たれた人が悔しがるのももっともなことだ。
新しく通い始めた婿君が、宮中に参内する支度をしている間ももどかしく、何かにつけて自分こそはと幅をきかせている女房が、のぞいて、張り切って、奥の方でウロウロしているのを、おそばにいる女房たちは分かっていて笑う。「静かに」と手まねで止めるけれども、肝心のお姫様の方は、何も気づかずおっとりと座っていらっしゃる。「ここのものを片付けましょう」などと言いながら近づいて、走りながら姫君のおしりを打って逃げてしまうから、周りの女房たちは皆笑う。
婿君もやられたなというように微笑むが、姫君は特に驚いた風もなく、ちょっと顔を赤らめているのが素敵だ。女房同士打ち合い、男をさえ打っているようだ。どういうつもりなのか、打たれて泣き、腹を立てて、呪ったり不吉なことを言ったりするのもおかしい。宮中のような高貴なところでも、今日は無礼講で上下乱れて、遠慮もない。
【原文】十五日、節供参りすえ、粥の木ひき隠して、家の殿達、女房などのうかがふを、打たれじと用意して、常に後を心遣いしたる気色も、いとをかしきに、いかにしたるにかあらむ、打ちあてたるは、いみじう興ありてうち笑いたるは、いとはえばえし。(以下略)
【解説】小正月の行事。元日の大正月に対して十五日は私的な祝いである。この日は小豆粥を食べる風習があった。十五日は望月(満月)の日なので望粥ともいう。粥を炊いた薪で女性の尻を打つと男の子を生むという。この風習は今でも「嫁叩き」などといわれ、地方に残る。この場面は、ある貴族の新婚夫婦と2人を取り巻く女房の様子である。貴族の姫君は万事につけておっとりしているのが上品でよい、とされた。当時は通い婚で、この家の姫君にもよい婿殿が通い始めたところ。よろこびが重なり、ますます明るい新春である。
*** 今週の教養 (枕草子④第二十段)
◎第二十段=中宮様のまわりはいつも春爛漫
【現代語訳】清涼殿(天皇の御殿)の縁側の手すり近くに、青磁のかめの大きいのを置き、桜のまことに見事な枝で1メートル半ばかりもあるのをたくさん活けてある、それが手すりの外まで咲きこぼれている、そんなある日の昼ごろのこと。
大納言様(皇后の兄、藤原伊周)が桜重ねの直衣(のうし=平常服)のしなやかなのに、濃い紫の、模様を織り出した指貫袴(さしぬきばかま)をはき、下着は白を重ね、一番上には濃い紅のあや織り、その鮮やかな色を直衣の裾からのぞかせた華やかな衣装でお目見えになった。帝がこちらにおいでなので、戸口の前の細い板敷きで何やらお話になる。
御簾(すだれ)の中には女房たちが、桜重ねの唐衣(正装時の上着)をゆったりと着ている。ほかにも藤がさね、山吹がさねなどセンスのいい彩りの袖口がたくさん、板戸の内側の御簾の下からこぼれ出ている。ちょうど、昼のお膳を運ぶ蔵人(役人)の足音が高く、「おーしー」という先払いの声がするのも、うらうらとのどかで素敵な春の日である。食事の用意ができたと申し上げるので、帝がおいでになる。それを大納言様はお送りして、また先ほどの桜のもとに戻って座っていらした。
【原文】高欄のもとに、青き瓶の大きなるを据えて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄の外まで咲きこぼれたる昼つ方、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、濃き紫の固紋の差貫、白き御衣ども、上には濃き綾のいとあざやかなるを出だして参り給えるに、上の、こなたにおはしませば、戸口の前なる細き板敷にい給ひて、ものなど申し給う。(以下略)
【解説】清少納言にとって忘れられない、素晴らしい宮仕えの日のひとコマである。続いて帝と中宮(皇后)、女房たちの間での、「古今集」の世界そのままの雅やかなやり取りが語られる。しかし、咲き誇る桜も無常の風に散らされるようにこの栄華も長くは続かない。わずか1年あまり後、道隆は急死、伊周は関白の位を継げすに自暴自棄になり、花山上皇に矢を射かける事件に関わって太宰府に流罪になってしまう。中宮の不幸もここから始まるが、枕草子の世界には現実の影の部分は書かれない。いつもこの日のように明るく華やかである。
*** 今週の教養 (枕草子⑤第二十一段)
◎第二十一段=女も世の中を知ろう-宮仕え礼賛
【現代語訳】将来に望みもなく、ただ一途に夫にすがって偽りの幸せに安住しているような女を見ると、うっとうしくバカみたいだと思えて、やはり、きちんとした家の娘などは、宮中に女房として仕えさせて世の中を見せたいし、できれば典侍(ないしのすけ=天皇側近の女官)などの役目をしばらく務めさせたいと思う。
宮仕えする女を、すれっからしになって世間体が良くない、などという男は本当に憎らしい。しかし、確かにそういうこともあるのだろうけれど。恐れ多くも、帝をはじめ、高官や女房の姿を見ない人は少ない、女房のお供の者、実家からの使いの者、もっと下々の掃除人などに至るまで会わずに隠れていられようか。男性はそれ程でもないかもしれないが、宮仕えをしている限りは同じようなものだろう。
宮仕えを経験した人を、奥様と呼んで大切にしている場合、人に顔を知られていることを奥ゆかしくないように思うのはもっともだけれども、反面、典侍などという役目で時々宮中に参内し、加茂の祭りの使者などに立ったりするのも、晴れがましいことだろう。そうした役目ながら家にこもって主婦になりきっているのはなおいい。夫が地方の長官として娘を五節の舞姫(収穫祭の時に宮中で行われる五節の舞を舞う少女)として出すことでもあれば、宮中の事情に通じていて、田舎者丸出しに人にあれこれ尋ねるようなことはしないだろう。奥ゆかしくていいものだ。
【原文】生い先なく、まめやかに、似非幸せなど見て居たらむ人は、いぶせく、あなづらはしく思ひやられて、なほ、さりぬべからむ人の女などは、さしまじらはせ、世のありさまも見せ習はさまほしう、典侍などにてしばしもあらせばや、とこそ、おぼゆれ。(以下略)
【解説】貴族の女は顔を見せてはいけないという時代。自分の娘でも成人したら几帳を隔てて会わねばならない。しかも顔は扇でしっかり隠していることが多かった。恋愛も、見たこともない相手にする。結婚は男が夜、3日通って成立したので、ようやく3日目の朝の光で女の顔を見ることができた。だから、宮仕えをしてたくさんの男性や下々の者にまで顔を見られるのは、はしたないだの、すれっからしになるだの言われたわけで、女房や女房づとめの経験者はちょっと軽く見られる傾向があった。