シモーヌ・ヴェイユの「根を持つこと」(2025年1月13~17日)
*** 今週の教養 (根を持つこと①)
今週は「根をもつこと」(岩波文庫、2010)を紹介する。著者はユダヤ人思想家のシモーヌ・ヴェイユ(1909~43)。ナチスドイツに祖国フランスを追われ、「根を持つことは魂の切実な欲求で、人間は複数の根を必要とする」と考えた。第2部「根こぎ」から引用する。根こぎは、根元から引く抜く意味だが、「根こぎから根づきへ」と訴える。
根を持つこと、それはおそらく人間の魂の最も重要な欲求であると同時に、最も無視されている欲求である。また、最も定義の難しい欲求の一つでもある。人間は、過去のある種の富や未来へのある種の予感を生き生きと懐いて存続する集団に、自然な形で参与することで、根を持つ。自然な形での参与とは、場所、出生、職業、人間関係を介しておのずと実現される。人間は複数の根を持つことを欲する。自分が自然な形で関わる複数の環境を介して、道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものを受け取りたいと欲するのである。
異なる環境の間で交わされる相互の影響は、自然につむがれる人間関係への根づきと同じく、成長には欠かせない要因である。ただし、ある環境が外部の影響を受け入れる際にも、その影響は即効性のある養分とみなされるのではなく、自身の生命力を活性化させるための刺激とみなされるべきだ。さらには外的な養分をあらかじめ消化吸収した上で、そこから活力を得るのでなければならない。なおかつ、環境を構成する個々の人間は、自分が属する環境を介してのみ外的な養分を受け取るべきである。真に優れた画家が、外的な養分の宝庫である美術館を訪れるとき、自身の独創性はいっそう強められる。このことは地上のさまざまな民族や社会環境にもあてはまる。
軍事的征服が行われるたびに根こぎが生じる。このため、征服はほとんど常に悪である。征服者がおのれの征服した国に住み着いて現地の民族と混じり合い、自ら現地に根を下ろす移住民となる時、根こぎは最小限に抑えられる。ギリシャにおけるヘレネス族、ガリアにおけるケルト族、スペインにおけるモール族の場合がそうだ。だが、征服者がおのれの掌握した地域になじまないまま居座るならば、服従を強いられる民族にとって、根こぎは死に至る病となる。根こぎが最も深刻な病状を呈するに至るのは、大量の強制移送が行われたとき、あるいは現地の伝統がことごとく暴力的に廃されたときである。例えばドイツ占領下のヨーロッパやナイジェリアの湾曲部において、あるいはゴーギャンやアラン・ジェルボーの言を信じるならば、フランス占領下のオセアニアにおいても生じた。
*** 今週の教養 (根を持つこと②)
たとえ軍事的征服がなされていなくても、金銭に基づく権力や経済的な支配は、その土地柄に馴染まない影響を及ぼし、ついには根こぎの病を引き起こす。国内の社会的な関係も、根こぎをもたらす危険極まりない要因となりうる。今日、わが国の地方には、征服は別として、この病を蔓延させる毒が2つある。1つは金銭だ。金銭は一切の動機を金儲けの欲望にすり替え、それが侵食するいかなるところで、もろもろの根を破壊する。この欲望がやすやすと他の動機を打ち負かすのは、他の動機に比べて微々たる注意力しか要求しないからだ。実に数字ほど明確にして単純なものはない。
完全に絶え間なく金銭に縛られている社会階層がある。賃金労働者である。中でも、出来高払いの賃金体系が導入されて以来、小銭単位の勘定に絶えず注意を向けざるを得ない労働者がそうだ。根こぎの病はこの階層において先鋭化された。我が国の労働者はそうは言ってもヘンリー・フォードの労働者のように移民ではない、とベルナノス(フランス人小説家)は書いた。ところが、我らが時代の主たる社会的困難は、わが国の労働者もまたある意味の移民だという事実にもとづく。
地理的には同じ場所に留まるとはいえ、精神的には根こぎにされ、追放され、いわばお情けで、労働に供される肉体という名目で改めて認知されるにすぎない。失業はいうまでもなく2乗の根こぎである。労働者は、工場にも、自分の住まいにも、彼らの味方と称する党や組合にも、娯楽の場にも、真の憩いを見出せない。たとえ知的文化を吸収しようとしても、そこにも憩いは見いだせない。
*** 今週の教養 (根を持つこと③)
根こぎの第2の要因は、今日考えられている意味での教育にほかならない。ルネサンスはいたるところで教養人と大衆を分断し、文化を国民的伝統から切り離しはしたが、少なくともこれをギリシアの伝統の中に投げ込んだ。その後、国民的伝統と文化との絆が取り戻されることはなく、しかもギリシアの方は忘れられてしまった。その結果、外科医から切り離された狭苦しい環境において、内向きの雰囲気のなかで醸成された文化が生まれた。それは技術を強く思考すると同時に技術の影響にさらされており、功利主義に芯まで染まり、専門化によって極端なまでに細切れにされ、この世界との接触のみならず、もうひとつの世界への通路までも失ってしまった文化である。
今日いわゆる教養ある環境に属する人間でさえ、一方で、人間の運命に関わる見解を全く抱かず、また一方で、たとえばすべての星座が四季を通じて見えるとは限らないことすら知らない。小学校に通う現代の農民の子の方がピタゴラスよりよほど物知りだと、一般には思われている。単にその子が、地球は太陽の周りを回っていると素直に復唱するからという理由で。だが現実には、その子はもはや星を見上げもしない。教室で語られる太陽は、その子が目にする太陽とは何の関係もない。ポリネシアの子ども達に「私たちの先祖ガリア人は金髪でした」と無理やり復唱させて、彼ら自身の過去から引き離すように、このような教育は農民の子どもを周囲の宇宙から切り離す。
*** 今週の教養 (根を持つこと④)
今日、大衆教育と称される手順は、閉じられた環境で生成され、あまりに多くの欠陥がある。しかも真理にまったく意を払わない現代の文化から、まだそこにかろうじて残っていた純金を大衆化の操作によって拭い去った上で、学びたいと願う哀れな人々の記憶の中に、ひからびた残滓を親鳥がひな鳥に口移しで餌を与えるように押し込むことを意味する。
そもそも、学ぶために学びたいという願望、つまり真理への願望は今や希少である。文化の威信はまず例外なく社会的なものとなり果てた。息子を小学校教師にするのを夢見る農民においても、息子を高等師範学校生にするのを夢見る小学校教師においても、あるいは著名な学者や作家におもねる上流階級の人々においても。試験は学齢期の青少年に対して、小銭が出来高払いの労働者に植えつけるのと同じ強迫観念を植えつける。自分は小学校教師になる頭がなかったから農民でいるという思いを胸に農民が大地を耕す時、社会の組織は深いところで病んでいる。
マルクス主義の名で知られる曖昧かつ大なり小なり誤った概念の混濁物、それはマルクス以来、その生成に関与してきたのが凡庸なブルジョア・インテリだけで、しかも労働者にとっては全く異質の養分であって同化吸収のしようもなく、その上栄養価はゼロという代物である。なぜならマルクスの著作に含まれていた真理はほぼ全て、この混濁物から抜き取られてしまったからだ。時には、さらに質の落ちる科学的大衆化という上塗りまで施された。すべてが労働者の根こぎの完遂に貢献した。
*** 今週の教養 (根を持つこと⑤)
根こぎは人間社会にとって他に類をみない最も危険な病である。自ら増殖してゆくからだ。真に根こぎにされた存在には2つの行動様式しかない。ローマ帝国期の奴隷の大半がそうだったように、死の等価物というべき魂の無気力状態に落ち込むか、あるいはまだ根こぎの害をこうむっていない人々を、往々にして暴力的な手段に訴えて完全に根こぎする行動に身を投じるか、そのいずれかである。
ローマ人はひと握りの逃亡者に過ぎなかったが、寄り集まって人為的に1つの都市を築いた。やがてローマ人は地中海域の諸民族から固有の生を奪い、祖国を奪い、過去を奪い尽くすのだが、その略奪ぶりが徹底していたので、後世はその言い分を真に受けて、彼らこそ、かの地の文明の創始者だと勘違いした。ヘブライ人は逃亡奴隷に過ぎなかったが、パレスチナの諸民族をことごとくせん滅するか隷属状態に追いやるかした。
ヒトラーが全権を掌握した時期のドイツ人は、ヒトラー自身も繰り返し主張したように、現実にプロレタリアート、すなわち根こぎにされた国民だった。1918年の屈辱、インフレーションや工業化、何よりもみぞうの深刻さを伴った失業の危機が、ドイツ人に重篤極まる心の病を患わせ、責任感の欠如を生み出した。16世紀以降、有色人種の虐殺と隷属化に手を染めてきたスペイン人とイギリス人は、かの地の生の深い部分に触れ合うこともない策謀家だった。フランス人の海外領土の一部についても同様だ。自身が根こぎにされた者は、他者を根こぎにする。根をおろす者は根こぎをしない。
革命という同じ名のもとに、またしばしば同一の合言葉と宣伝文句のもとに、全く正反対の2つの構想が隠されている。第1の構想とは、労働者の根つきを促す社会変革を目指すことであり、第2の構想とは、労働者を苦しめてきた根こぎの病を社会全体に撒き散らすことだ。第2の作業は第1の作業の前触れであると言ったり考えたりすべきではない。それはウソである。それらは二つの相反する方向性であって、交わることはない。