ホワイトカラー消滅(2025年2月10~14日)

*** 今週の教養 (ホワイトカラー消滅①)

今週はホワイトカラーのあり方を鋭い視点から考えた「ホワイトカラー消滅」(NHK出版新書、2024)を紹介する。著者は戦略コンサルタントの冨山和彦氏。企業再生を手掛ける日本共創プラットフォームの社長を務める。生成AI時代を迎えて、ホワイトカラーは消滅する危機にあり、働き方や生き方をどうすべきかを問うている。カギはリベラルアーツと言語能力にあるという。第4章「悩めるホワイトカラーとその予備軍への処方箋」の一部を掲載する。

◎何が現代の実学か  「リスキリング」という言葉が流行っている。「リスキリング」は、スキルが前提の議論である。だが日本企業のホワイトカラーは、特別なスキルがない「アンスキルド」と言っても過言ではない。学生時代にぼんやりと勉強しているが、突き詰めたところまで学んでいないので、「アンスキルド」に過ぎない。リベラルアーツの価値は、もっと普遍的によりよく生きていくための基礎技能的な意味合いである。

「リベラルアーツはいつか役に立つ」といわれるが、その言い方は誤っている。特定の状況でその力を繰り出せるほどに身体化できているかどうかが有用性を決めるのだ。例えば自分の入った企業がすぐにつぶれるような事態に陥ったとしたら、平時の企業で学ぶべきスキルは役に立たない。その時にこそリベラルアーツがものをいう。より良く生きるための知的技能、すなわち思考や行動のベースになるのがリベラルアーツだからだ。

リベラルアーツはマインドセットの問題ともいえる。すぐに役立つとは限らないが、ほとんどのスキルの底流にある基礎能力である。いざという時に本質的、決定的に役に立つことがリベラルアーツと呼ばれるものである。技法として身体化されていなくてはだめで、日本語で「よくあの人には教養がある」というときに使う物知り知識、うんちく知識では意味がない。

リベラルアーツには基礎編と応用編がある。基礎編の基本要素は、「言語的技能・技法」を指す。人間は言語でものを考える。これが身についていないと、ものを考えられないことになる。経済活動に従事する上では、経済学と簿記会計が欠かせない。法的ルールに基づいて社会の枠組みが構築されていることを考えると、基礎法学もこれに入るだろう。さらには統計学や基礎的な微積分レベルの数学力も重要だ。企業の客観的・定量的評価方法は財務数値に還元されるからだ。

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*** 今週の教養 (ホワイトカラー消滅②)

◎リベラルアーツの基礎  最近の生成AIは、作業としての言語的技能を代替してくれる。しかし、考えるための言語能力を身に着けていないと、生成AIを使う使いこなすことはできない。言語科目の重要性はこれからも変わらない。当該の領域で必要となる基礎的な言語的技能、肉体的技能を習得することが大事となる。

現在のホワイトカラーサラリーマンにおすすめの学問があるとすれば、言語的技法を現代にアレンジして身体化することである。簿記会計は現代ならエクセルを使った財務三表の連動モデリング、基礎的な企業財務技法(企業や資産の価値評価手法)の習得は必要だろう。デジタル空間でものを考える時には、プログラミング言語やAIの基本構造、基本特性を理解していることが必要となる。

言語的機能のいいところは、ものを考える手段として機能するレベルまでなら、誰でも時間を使って到達できる点である。言語的技法の基礎が身についていれば、たいていのホワイトカラーは、つぶしがきく人材になれる。ビジネスパーソンとして生きていく上で、時代変化を超えて有効な「すぐに役に立って、ずっと役に立つ」根本スキルである。日本のホワイトカラーの多くが身につけていないので、身につければそれだけ十分な差別化要因になる。


これがしっかりしているということは、スポーツで言えば体幹、足腰、心肺能力がしっかりしていることと同じなので、環境変化の中でのリスキリング能力も格段に上がることになる。よくあるノウハウ本を読んでも、そもそも言語能力がなければ実践には使えない。様々な人生の状況に対して、言葉を持っていなければ、ものを考えられない。「急がば回れ」である。

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*** 今週の教養 (ホワイトカラー消滅③)

◎カギは読む力と書く力  言語能力を向上させるカギは、「読む力」と「書く力」である。私たちの日常生活のコミュニケーションは、「聞く」と「話す」で成り立っている。この2つは普段からずい分やっているので、伸びしろがない。人間の知的活動としては、文字と文章に関わる領域がより高度で、能力差が出る。だから読む力と書く力の学びにエネルギーを傾注することを勧める。差が出るような聞く力、話す力は、その上に成り立つものである。

SNSの時代なので、短文の読み書き能力は放っておいても向上する。ビジネスパーソンに問われる能力は、相当量のファクトを認識し、整理し、一定の思考フレームワークを選択し、それらをあてはめて論理を構築し、わかりやすく表現する力だ。

仕事の世界で他人に物事を伝えるには、こうした最低限のファクトとロジックから成る「物語」の基本構造が必要なのだ。言語化能力をセンスのように言う人が多いが、物語がしっかりしていることが前提で、そこから伝わりやすい語彙選択をする順番になる。中身がないものは、どう言語化して中身がない。

今まで読んだ量が少ないと思っている人は、今からでも遅くはない。とにかく濫読である。書く力も同じで、いろいろな種類、言語領域の書き下し文をたくさん書くしかない。パワポスライドを書く力は、必ずしも文章を書く力を押し上げないので要注意である。あのフォーマットは、かなりごまかしがきくからだ。アマゾンは会議でパワポを禁止している。書く側も読む側も、書き下し文で行うことを要求されている。理にかなっている。

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*** 今週の教養 (ホワイトカラー消滅④)

◎リベラルアーツの応用  リベラルアーツの「アーツ」を芸術と訳してはいけない。「技芸、技能、技法」がふさわしい。リベラルアーツの本質は「自由に生きるための技芸、技能、技法」となる。

ざっくり言えば、「問いを立て」「答えを模索し」「決断する」という3要素になるが、この力を鍛えるマニュアル的なフォーマットはないと思っている。戦略コンサルティングの世界では「課題解決」や「クリティカルシンキング」などの手法があるかのような書物が多いが、そうではない。

「学ぶ」というより「育む」という言葉がフィットする。ケーススタディなどのシミュレーションと実践の中で力を育むことになる。「育まれる環境」として、できるだけややこしい立場、職場に身を置くことが有効で、指示されるより指示する立場、自分で決断する立場がよい。

もう一つは、世の中の森羅万象に好奇心を持ち、目の前の現象からその背景にある根源的なメカニズムを探索する思考傾向を持つことである。個別現象の背景にある普遍的な原理原則へと思考を抽象化できるか、さらにはその反射として既存の原理原則、個別現象やディテールの現在の与件に対し、疑問を持つことができるか。その力が求められる。

ホワイトカラーが企業で身につけてきたスキルの多くは、所属する企業固有の処世術である。そうした処世術はいったん忘れ、考えるための言語を学ぶことがリスキリングの出発点となる。これからの企業社会では、業務マニュアルを守る能力はAIや機械に代替されていく。マニュアルから外れているものにどう対応できるか、マニュアルが現実に合わなくなった時にどう変えるか。考えようとすると、どう考えても言語能力を持っていなければならない。リベラルアーツを基盤にして、より解像度をあげられる言語能力が問われる。それこそがリスキリングの技能である。

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*** 今週の教養 (ホワイトカラー消滅⑤)

◎お寒いリスキリングの現状  我が国のリスクリングの問題点は、無秩序に広範なメニューを提示し、無駄で的外れに終わるケースが後を絶たないことだ。原因は、企業が事業領域をシフトする時、必要なスキルが定義されていないケースが多い。企業が目指す戦略の軸や事業モデルの概要を明確にしなければ、社員に対して必要なスキルも定義できない。

仮に出版社が電子書籍に注力するなら、「これからは一切紙の本を出版しません」と明確に言わないといけない。多くの場合、言い切ることを躊躇して緩やかに定義をする。すると、リスキリングの科目が必要以上に増えるカフェテリア方式になり、的を絞ることができずに中途半端に終わる。時代を生き抜く実践知が身体化できるようには思えない。

インターネットで手軽に勉強できる仕組みを構築し、英語も勉強できる、プログラミングもできる、あれもこれも勉強できると並べ、社員には「これからは自分の力で稼ぐことが大事だから、メニューの中から自由に選択し、勉強してください」と伝える。ところが社員側からすれば、何から勉強していいかわからない。

企業が提示したメニューはほとんど使われることなく、うやむやになる。そもそものスキリングが弱く、基礎的言語力が弱い人が、この程度の勉強をやったからといっても使い物にはならない。これが現状の日本企業に多いリスキリングの状況である。

結局この問題は、企業のトランスフォーメーションのゴールが定義できていないことから発生している。本来はトランスフォーメーションしたいからこそ、この議論が始まるはずだ。しかし社員に対して厳しいことを言うと、社内が動揺するので逡巡してしまう。

カフェテリア方式で多くのメニューを出されても、社員も企業も逡巡している様子が手に取るようにわかる。だから一生懸命やっても意味がないと見切ってしまう。リスキリングの定義が曖昧な状態で、言葉だけが踊っているのではないだろうか。