ハイデガー著「存在と時間」(2025年2月17~21日)

*** 今週の教養 (存在と時間①)
ドイツの哲学者ハイデガー(1889~1976)は、「20世紀最大の哲学者」と言われる。代表的著作「存在と時間」は、最難解な哲学書とされる。神の代わりに自分の死を意識し、哲学を死生観で再定義して現代哲学に大きな影響を与えた。ナチスに加担したため、毀誉褒貶がある。岩波文庫(1960)の書き出しから独自世界の一端のぞいてみたい。
◎エトムント・フッサールに尊敬と親愛の情を込めてこれをささげる。シュヴァルツヴァルトのトトナウベルクにて、1926年4月8日。
「・・・というのは、君たちが(ある){存在する}という言い方をするとき、いったいそれがどんな意味なのか、君たちはずっとまえからむろんよく知っているのだ。ぼくたちも以前には、それがよくわかっているつもりだったが、今はてんで分からなくなって困ってきっているのさ」(プラトン『ソフィステース』)
「ある」{存在する}という言葉でもって、私達は一体何を考えているのか、と問われた場合の答えを、私たちは今日、用意しているでしょうか。いやいや決してそんなことはありません。それだからこそ、存在の意味への問いを、改めて提出する必要があるのです。それではまた、「存在」(ザイン)という意味が分からない、と言っただけのことで、私たちはいま途方に暮れているのでしょうか。
決してそうではありません。それだからこそ何よりもまず、この問いの意味を理解するように、改めて促さねばなりません。存在の意味への問いを具体的に仕上げるのが、以下の論文の意図なのです。すべての存在了解一般が可能になる視界としての、時間を解明することが、この論文のさしあたっての目標なのです。そのような目標を目指すことや、そのような企図に含まれていて、それから促されたもろもろの研究、ならびにその目標にいたる道程のためには、序論としての解説が必要です。
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*** 今週の教養 (存在と時間②)
序説 存在の意味への問いの究明。第一章 存在の問いの必要、その問いの構造と優位
「形而上学」を再び肯定することが、現代の進歩のしるしだと考えられているにもかかわらず、右の存在への問いは、今、忘れさられています。それでも人は、新たに燃えだした「実有(ウーシア)に関する巨人の戦」といったものへの緊張から、解放されたとでも思っているのです。この際、今触れられた問いは、決して勝手気ままな問いではありません。この問題はプラトンやアリストテレスを散々悩ませたあげく――実際の研究の取材的な問いとしては――それ以来なるほど、黙りこませてはいます。この両人の思考がかち得たところのものは、さまざまの(ずれ)と「上塗り」に彩られて、ヘーゲルの「論理学」にまで持ち越されました。そしてかつては、たとえ断片的であり、最初の滑り出しであったにせよ、思考の最高の努力によって、もろもろの現象から戦い取られたものが、すでに久しく陳腐なものにされてしまっているのです。
そればかりではありません。存在の解釈に乗り出したギリシャ人の立っている足場に、一つのドグマが形成されて、これが存在の意味への問いを余計なものとして片づけるばかりでなく、その上、このような問いを怠ることも、正当づけているのです。「存在」は最も一般的な、同時に最もむなしい概念である、と言われています。こうしてこの概念は、どんな定義づけも拒みます。この最も一般的な、従って定義されえない概念はまた、どんな定義も要らないのです。誰でもこの概念を常に用い、それがいったいどんな意味か、誰でもすでに分っています。こうして、かつては隠れたものとして、古代ギリシャ人の哲学的思考を不安に駆り立て、不安の中に捉えていたものが、今日では白日のように、あまりにもあきらかなものとされてしまい、その結果、これについてなお問う者は、なにか方法上の誤りでも冒すものとして咎められるほどです。
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*** 今週の教養 (存在と時間③)
この研究を始めるにあたっては、存在への問いといったものが必要でないということを、常に新たに植え付け培っているさまざまな偏見について、詳しく説明することはできません。これらの偏見は、古代の存在論自身のうちに持っているのです。存在論の基礎概念が生い立った地盤について、ことにカテゴリーの明示の適切さとその完璧さに関しては、先に明らかにされ、また答えられたところの存在への問いを導きの糸として、古代存在論が改めて充分に解釈されねばならないのです。私たちは存在の意味への問いを繰り返す必要が、明確になる地点まで、右の偏見についての議論を進めたいと思います。その論点は以下の3つです。
1、「存在」は「もっとも普遍的な」概念である。「存在はすべてのうちで最も優れて普遍的である」(アリストテレス形而上学第3巻)。「最初に把握されるものは存在(エンス)であり、この理解は、人が捉える全てのものの中に含まれている」「存在の理解は、人が存在するものについて捉えるところの全てのものの中に、それそれぞれすでに含まれている」(トーマス神学大全第2巻)。しかしながら「存在」の「普遍性」は、類概念のそれではありません。存在するものが、類と種に従って概念的に区別されている限り、「存在」は存在するものの最高の領域を区切っているのではありません。存在の「普遍性」は、全ての類的普遍性を「超えています」。
中世の存在論の用語に従えば、「存在」は一つの超越概念です。事象的な最高の類概念の多様性に対して、この超越的な「普遍」の統一をば、アリストテレスはすでに、アナロギアの統一として認めていました。この発見をもってアリストテレスは、プラトンの存在論的な問題提起にことごとく依存したにもかかわらず、存在の問題を、原理的に新しい土台の上に打ち立てました。中世の存在論は、この問題を、とくにトーマスやスコーツス派の枠内でさまざまに論議しましたが、原則的な明瞭さには、ついに達しませんでした。たとえ最後にヘーゲルが、「存在」を「無規定的に直接なもの」と規定して、この規定を彼の論理学を築き上げる一切のカテゴリー解明の根底としても、事象的なもろもろの「カテゴリー」の多様さに対して、すでにアリストテレスによって提出された存在の統一という問題を捨て去ったことを除いては、ヘーゲルは古代の存在論と同じ視点に立つものです。
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*** 今週の教養 (存在と時間④)
2、「存在」という概念は定義することができない。このことは、その概念の最高の普遍性から推論されます。実際「存在」は、存在するものとしては捉えることができません。すなわち、「存在にはどんな性質も付け加えられない」、存在には存在するものが帰属する、というような仕方で、存在は規定されることはできません。定義を下そうとしても、存在は、もっと高い概念から導かれもしないし、またもっと低い概念でもって述べられもしません。「存在」がもはやどんな問題をも提供することができない、と結論されるでしょうか。もってのほかです。帰するところはただ、「存在」は、存在するものといったようなものではない、ということです。ある限界内で承認されるところの存在するものの規定付けの仕方は、存在に適用できません。
3、「存在」は、自明の概念である。認識や叙述のすべてに、また存在するものへの、また自分自身に向けての関わり合いのすべてに、「存在」という語が用いられ、そのような表現は「とやかく言わず」に理解されます。「空が青い」とか「僕はうれしい」など、誰でも分っています。しかしこの誰でも「ふんわりと」分かっている事が、かえって誰にもわかっていないことを示しているのです。このことは、存在する物としての存在者に対するすべての関わり合いと、存在の中に、先天的に一つの謎があることを明らかにしています。私たちがすでにその都度、ひとつの存在了解の中に生き、しかも存在の意味が暗黒に包まれていることは、「存在」の意味への問いを繰り返さねばならない、原理的な必然性を示しているのです。
哲学の基礎概念の枠内で、自明性を引き合いに出すこと、それもなお「存在」概念に関してそうすることは、たとえ「自明なもの」が、そしてただそれだけがつまり、カントのいう「通俗的な理性の秘められた判断」が、改めて分析論の主題となり、またそうあらねばならないとしても、疑わしいやり方です。偏見を考慮して明らかになったことは、存在への問いについての解答が用意されていないばかりでなく、問いそのものが暗いままで方向を見失っている、ということです。そこで存在問題を再び提起するということは、問題の出し方そのものを、改めてもう一度充分に吟味する、ということなのです。
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*** 今週の教養 (存在と時間⑤)
4回目まで「存在と時間」の書き出しを紹介したが、ほとんど意味がわからない。最終回は「教養書必読100冊を1冊にまとめてみた」(永井孝尚著、2024)から要約した本の趣旨を紹介する。
存在論は古代ギリシャ以来の哲学上の難問であり、ハイデガーは「私ならこの問いに答えられる」と考えて本書を書いた。「人間の終わりは死である。人間にふさわしく死が存在するのは、死へと関わる実存的な存在においてのみである」という。人間がどう変わるかは予測できないが、確実なことは、「人が必ず死ぬことだ」。死によって人間の存在は消滅する。ハイデガーは人間の死の特性を次の4つと考えた。
【1】死の瞬間は自分も消滅するので、死は経験できない【2】死は死ぬ人固有の出来事なので、他人の死の経験は共有できない【3】死の瞬間、自分と自分以外のあらゆる存在者との関わりが消滅する。要は死んだら終わりである。【4】死は他人が代理となるわけにはいかない。
私たちは死が何なのかさっぱりわからない。だから不安を感じる。そこで多くの人は自分の死を直視しない。先送りして周囲の人たちと同化して過ごしている。わかりやすい例で言うと、仕事の後に仕事仲間と飲みに行ったり、ランチでおしゃべりに熱中したりして楽しく過ごしている。こんな状態を「頽落」(たいらく)と呼び、他人に同調して安心し自分の主体性を発揮しない人間を「ダスマン」(世人)と呼んでいる。ハイデガーはこの状態を必ずしも否定的には言っていない。頽落とか世人といった状態は、人間の日常的な状態なのだ。しかし、ハイデガーは、人間には本来的な生き方もあると考えている。確実な死に向き合い、自分の生き方に積極的な意味を見出す。これが「死の先駆」だ。
ハイデガーは自我中心哲学の限界として死を位置づけることで、近代哲学全体のよって立つ基盤を再考することの重要性を改めて強調したかったのかもしれない。西洋社会で絶対だった神は、死んでしまった。そこでハイデガーは、神の代わりに万人が対峙せざるを得ない「死」を置き、本来的な生き方をする「死の先駆」で宗教色を抜いた。そして「死生観」で哲学を再定義し、あらゆる人が共有できるようにしたといえる。
