半藤一利の「昭和史」(2025年3月10~14日)

*** 今週の教養 (半藤一利の昭和史①)
3月10日は東京大空襲から80年。この空襲で焼け出され、九死に一生を得たのが、作家の半藤一利さん。戦後、文藝春秋社で長く編集者を務め、昭和の歴史や戦争に関する記事を多く手がけた。授業形式の語り下ろしで、わかりやすい通史として「昭和史」(平凡社ライブラリー、2009)を出版し、今や昭和を知る名著になった。2冊あるが、戦前を扱った「1926-1945」の「むすびの章」を紹介する。アジア太平洋戦争の歴史と教訓は、現代人の基本的教養でもある。
昭和史は、日露戦争の遺産を受けて、満州を日本の国防の最前線として領土にしようとしたところからスタートしました。最終的に満州にソ連軍が攻め込んできて、明治維新このかた日露戦争まで40年かけて築いてきた大日本帝国を、日露戦争後の40年で滅ぼしてしまいました。満州国はあっという間にソ連軍に侵略され、もとの中国領土となる形で戦争が終わりました。昭和は何と無惨にして徒労な時代であったかということになるわけです。厳しく言えば、日露戦争直前の、いや日清戦争前の日本に戻ったので。50年間の営々辛苦は無に帰したのです。昭和史は無になるための過程であったと言えるようです。
8月15日の朝まだき、天皇の戦争終結の放送の前に最後まで国体護持、すなわち天皇の身柄の安全にこだわった阿南陸相は、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して、割腹自決いたしました。全陸軍を代表して悲惨な国家敗亡をもたらした罪科を天皇陛下にお詫びしたものなのでしょう。しかし、深読みすれば、平和を取り戻すための犠牲となり、大陸に南溟(なんめい=南の大きい海)に、太平洋の島々に、空しく散ってかなければならなかった数限りない死者に対して、心からなるお詫びを述べているのではないか。そう思われてなりません。
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*** 今週の教養 (半藤一利の昭和史②)
太平洋戦争下の戦闘では、たくさんのところで日本の兵隊さんたちが亡くなっています。主な戦場でのそれを一挙に読み上げます。
ガダルカナル島で戦死8200人、餓死または病死1万1000人。アッツ島で戦死2547人、捕虜29人、ほぼ全滅です。ニューギニアで病死も含む戦死15万7千人。タラワ島で戦死4690人、ここも玉砕で捕虜146人。マキン島も玉砕で戦死690人、捕虜90人。ケゼリン島も玉砕で、戦死3472人、捕虜250人。グアム島で戦死1万8400人、捕虜1250人。サイパン島で戦死約3万人、市民の死亡1万人、捕虜900人。
島だけでなく陸上でもたくさんの人が死んでいます。インパール作戦で戦死3万500人、傷ついた人あるいは病気で倒れた人4万2000人。インパール作戦の一つとしてビルマの東、中国本土で戦われた拉孟騰越(らもうとうえつ)も玉砕で戦死2万9000人、生存者1人、無事脱出したこの人がこの戦いのことを語りました。
ペリリュー島も玉砕で戦死1万650人、捕虜150人。フィリピンでは、レイテ島やミンダナオ島、ルソン島のマニラ周辺など多くの場所で戦闘が行われ、全域での戦死47万6800人、生存13万3000人。硫黄島も玉砕し、戦死1万9000人、捕虜210人。沖縄では戦死10万9600人(中学生や女学生など義勇兵も含めます)、市民の死亡10万人、捕虜7800人。
さらに日本本土空襲による死者は全国で29万9485人、236万戸の家が灰や瓦礫となりました。(昭和24年経済安定本部発)。8年間にわたる日中戦争の死者は、満州事変と上海事変も入れて総計41万1610人ということです。(臼井勝美「日中戦争」による)。
戦争が終わってしばらくは、日本の死者は合計260万人と言われていましたが、最近の調査では約310万人を数えるとされています。そして特攻作戦によって若い命を散らしていた人たち(戦争末期、「志願」によってという名目で、ただし半分以上は命令によって作戦に参加)は、海軍2632人、陸軍1983人、合計4615人。これだけの死者が20年の昭和史の結論です。
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*** 今週の教養 (半藤一利の昭和史③)
よく歴史に学べと言われます。確かにきちんと読めば、歴史は将来に大変大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。ただそれは、私たちが正しくきちんと学べばという条件のもとです。その意志がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません。昭和史の20年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話してみます。
第一に国民的熱狂を作ってはいけない、国民的熱狂に流されてはいけない、一言で言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。熱狂というのは、理性的なものではなく、感情的な産物です。昭和史全体を見てきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと、熱狂そのものが権威を持ち始め、不動のもののように人々を引っ張っていきました。結果的には、海軍大将米内光政が言ったように「魔性の歴史」であった。われわれ日本人が熱狂したからだと思います。
対米戦争を導くとわかっていながら、何となしに三国同盟を結んでしまった。良識ある海軍人は、ほとんど反対だったと思います。それがあっという間にあっさりと賛成に変わってしまったのは、まさに時の勢いだったわけです。理性的に考えれば反対でも、国内情勢が許さないという妙な考え方に流されたのです。純軍事的に検討すれば、対米英戦争など勝つはずがない。勝利の確信など全くないと分かっていたのですから、あくまで反対せねばならなかったし、それが当然であった。しかし、このまま意地を張ると、国内戦争が起こってしまうのではないかなどのような考えが軍の上層部を動かしていました。
昭和天皇が「独白録」の中で「私が最後までノーと言ったならば、多分幽閉されるか、殺されるかもしれない」という意味のことを語っていますが、これもまた時の流れであり、つまりそういう国民的熱狂の中で、天皇自身もそう考えざるを得ない雰囲気を感じていたのです。
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*** 今週の教養 (半藤一利の昭和史④)
教訓の2番目は、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論を全く検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。ソ連が満州に攻め込んでくることが、目に見えていたにもかかわらず、攻め込まれたくない。今こられると困ると思うことが、だんだん「いや攻めてこない」「大丈夫。最後まで中立を守ってくれる」という風な思い込みになるのです。情勢をきちんと見れば、ソ連が国境線に兵力を集中し、シベリア鉄道を使ってどんどん兵力を送り込んできていることはわかったはずです。なのに、攻めてこられると困るから来ないのだと自分の望ましい方に考えを持っていって動くのです。
昭和16年11月15日、大本営政府連絡会議は、戦争となった場合の見通しについて討議しました。ここで決定された戦争終結の腹案は要するに、ドイツがヨーロッパで勝つ、そうすればアメリカが戦争を続けていく意志を失う、だから必ずや栄光ある講和に導けるという、全く他人の褌で相撲をとると言いますか、夜郎自大的な判断を骨子にしたことでした。
同時にこの時、アメリカにたいする宣伝謀略を強化するという日本流の策を決めるのでが、まずアメリカ海軍主力を日本近海へ誘致するようにする。日露戦争の日本海海戦を夢見ているんです。アメリカ海軍がきちんと自分たちの希望する道を通って日本近海に来てくれる、そのときは迎え撃って撃滅してみせるというのです。そして「アメリカのアジア政策の反省を促し、日本と戦うことの無意味をアメリカに説く」。勝手にそんなことを決めてもアメリカは聞いてくれるはずはない。ですが、日本は真剣にそう考えたのです。そうできると夢見たのです。
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*** 今週の教養 (半藤一利の昭和史⑤)
教訓の3番目に日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力を持ち、その他の部署でどんな貴重な情報を得てこようが一切認めないのです。軍令部でも作戦課がそうでした。つまり昭和史を引っ張ってきた中心である参謀本部と軍令部は、小集団エリート主義の弊害をそのままそっくり出したと思います。
そして4番目に、ポツダム宣言の受諾が意思の表明でしかなく、終戦はきちんと降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、日本人は全く理解していなかったこと。簡単に言えば、国際社会の中の日本の位置づけを客観的に把握していなかった。これまた常に主観的思考による独善に陥っていたのです。
さらに5番目として、何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短編急な発想です。これが昭和史の中で次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観が全くない。複眼的な考え方がほとんど不在であったというのは、昭和史を通しての日本人のあり方でした。
いろいろと利口そうなことを言いましたが、昭和史全体を見てきて結論として一言で言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人々は、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことかということでしょうか。こんな事を言っても仕方ない話なのですが、あらゆることを見れば見るほど、どこにも根拠がないのに「大丈夫勝てる」だの「大丈夫、アメリカは合意するだろう」ということを繰り返してきました。
その結果、まずくなった時の底知れぬ無責任です。今日の日本人にも同じことが多く見られて、別に昭和史、戦前というだけでなく、現代の教訓でもあるようです。昭和の歴史というのはなんと多くの教訓を私たちに与えてくれるかが分かるのですが、先にも申しました通り、しっかりと見なければ見えない、歴史は学ばなければ教えてくれない、ということであると思います。
