インド・パキスタン 対立の歴史(2025年5月12~16日)

*** 今週の教養(インド・パキスタン問題①)
核兵器を保有するインドとパキスタンで緊張が高まった。米国の仲介で一応停戦したが、対立の歴史は長く、予断は許さない。インド・パキスタン問題の基礎知識として、対立の歴史と現状をチャットGPTに5回にわたってまとめてもらった。事実関係もチャットGPTでチェックし、必要な修正を加えた。
【第1回】対立の原点―分離独立と宗教の亀裂
インドとパキスタンの対立は、1947年のイギリスからの独立と同時に始まった。かつて「インド」と呼ばれていた地域は、多様な宗教と民族が共存する巨大な植民地だったが、独立運動が進む中で、ヒンドゥー教徒を中心とするインド国民会議と、イスラム教徒のための国家を求める全インド・ムスリム連盟との間に深い溝が生まれた。この結果、イギリスは「二国家論」に基づき、インドとパキスタンを宗教的に分ける形で分離独立を承認した。ヒンドゥー教徒が多数を占める地域はインドに、イスラム教徒が多い地域はパキスタンとして、新たに国境が引かれた。だが、この分離は理想的には見えても、現実には何百万人もの人々にとって破滅的だった。
国境線を越えての大規模な宗教的移動が始まり、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で暴力が頻発した。推定100万人が命を落とし、1000万人以上が難民となって家を追われた。これは「パーティション(分離独立)」として、今なお両国民の心に深い傷を残している。特に問題となったのが「カシミール地方」だった。ヒンドゥー教徒の王が統治していたが、住民の大多数はイスラム教徒だったため、パキスタンは当然この地域が自国に帰属すべきだと主張。一方で王はインドへの編入を選び、これが第1次印パ戦争(1947~48年)を引き起こした。国連の介入で停戦したものの、カシミールは「事実上の分割統治」となり、両国の火種は消えなかった。
この分離は単なる政治的措置ではなく、宗教とアイデンティティの分断を意味した。人々の間に「隣人が敵に変わる」体験が生まれ、文化や家族、言語までもが引き裂かれた。その痛みと不信が、以降の両国の関係に影を落とすことになる。
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*** 今週の教養(インド・パキスタン問題②)
【第2回】繰り返される戦争と核武装
1947年の分離独立以降、インドとパキスタンは幾度となく武力衝突を繰り返してきた。最も注目されるのは、カシミール地方を巡る3度の戦争(1947年、1965年、1999年)である。これらの戦争は、単なる領土争いではなく、国家のアイデンティティと宗教的対立、そして民族感情が絡んだ複雑な対立であった。
第2次印パ戦争(1965年)は、パキスタン側がカシミールのイスラム教徒の反政府感情を利用し、ゲリラ戦術を用いてインド支配に揺さぶりをかけたことで勃発した。インドはこれに大規模反撃を行い、両国間で全面戦争に発展した。最終的にはソ連とアメリカの仲介によって停戦が成立したが、根本的な解決には至らなかった。
1971年の第3次印パ戦争は、直接的にはバングラデシュ独立運動をめぐるものであった。当時、東パキスタン(現在のバングラデシュ)では、中央政府(西パキスタン)の支配に対する反発が強まっていた。インドは難民支援を名目に介入し、最終的に東パキスタンを独立させるかたちでバングラデシュが誕生。これはパキスタンにとって屈辱的敗北であり、印パ関係の緊張はさらに高まった。
こうした度重なる戦争の果てに、両国は1990年代に核武装を進める。インドは1974年に初の核実験を実施し、パキスタンも1998年に応じるかたちで核実験を行い、名実ともに「核保有国」となった。以後、両国は軍事的な「均衡状態」に入ったが、むしろこの核兵器が、通常戦争を抑制する一方で、テロやゲリラ戦など「非対称的な戦争」の温床となっていく。特に1999年の「カルギル紛争」は、パキスタン軍と武装勢力がインド領内のカシミールに侵入して起きた衝突であり、両国の核武装後初の本格的な軍事対決となった。国際社会の圧力により停戦に至ったが、核兵器の存在が地域の安全保障に新たな不安をもたらすこととなった。
戦争と核の歴史は、単に力の誇示ではない。両国の民衆が互いを「恐怖」と「敵視」の対象として固定していく過程でもあり、これは後の宗教対立や排外感情、教育やメディアの言説にも深く影響を与えていく。
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*** 今週の教養(インド・パキスタン問題③)
【第3回】宗教とナショナリズム―教育とアイデンティティの分断
インドとパキスタンの対立は、単に戦争や外交だけの問題ではない。むしろ日常生活や教育、文化のなかに深く浸透し、人々の意識の根底を形づくっている。特に重要なのが、宗教とナショナリズムの関係だ。両国は、それぞれの「国家の物語」を築くなかで、宗教を中核に据えたアイデンティティを強化してきた。
インドはヒンドゥー教徒が多数派であるが、憲法上は世俗国家を標榜してきた。イスラム教徒やキリスト教徒、仏教徒、シク教徒など多宗教国家としてのバランスをとる努力を続けてきたが、近年はヒンドゥー・ナショナリズムが台頭し、イスラム教徒に対する差別や排除の傾向が強まっている。学校教育では、インドの歴史や文化がヒンドゥー中心に描かれるようになり、イスラムの貢献は過小評価されることもある。
一方のパキスタンは、国家の建国理念そのものが「イスラム教徒のための国」であるという前提に立っている。そのため、建国直後からイスラム教が政治と教育の中心に置かれ、非イスラム教徒への抑圧や排除がしばしば発生してきた。教科書にはインドに対する敵対的な記述が見られ、イスラム教の優位性を強調する内容が強い。
教育やメディアの活動は、両国の若者に「敵国観」を植え付ける要因となってきた。戦争体験のない世代であっても、「あの国は我々の宗教と価値観を脅かす存在だ」というイメージが日常のなかで育まれる。この結果、宗教間の対話や共生の機会は失われ、政治的緊張がなくとも「心の戦争」は続いていると言える。さらに、文化交流の断絶も深刻だ。かつては共通の言語(ウルドゥー語やヒンディー語)や音楽、映画、食文化でつながっていた両国だが、現在では映画の上映禁止、アーティストの入国拒否など文化的接触さえも遮断されがちである。
つまり、宗教とナショナリズムは、単なる信仰の問題ではなく、「我々と彼ら」を区別し、国民意識を強化する装置として利用されてきた。それは教育や日常生活のなかに浸透し、両国民が互いに理解し合う機会を著しく奪っているのである。
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*** 今週の教養(インド・パキスタン問題④)
【第4回】対立の影にある市民社会と平和運動
インドとパキスタンの関係はしばしば「憎しみ」や「対立」で語られがちだが、その一方で、両国の市民社会には静かな連帯の芽も存在する。政治や軍事の表層を越えて、文化人、学者、ジャーナリスト、そして一般市民による「対話」と「和解」の試みは、長年にわたり粘り強く続けられてきた。
特に目立つのが、ジャーナリズムや文学、芸術を通じた交流である。インドの詩人や作家、映画監督の中には、分離独立をテーマにした作品を発表し、宗教を越えた人間の痛みや共感を描いてきた人々がいる。一方のパキスタンでも、反戦や女性の権利、言論の自由を訴える市民が育っており、彼らの活動は国内外で共鳴を呼んでいる。例えば「ピープルズ・フォーラム・フォー・ピース・アンド・ディモクラシー(PIPFPD)」という草の根団体は、1990年代から国境を越えた対話の場を設けてきた。両国の市民が直接出会い、意見を交わし、偏見を乗り越える努力は、メディアが報じないところで確実に進行している。
また、宗教者の間でも「平和のための祈り」や対話の試みがある。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教指導者が共同でイベントを開催した例もあり、「信仰の違い=敵意」という構図を相対化しようとする動きも見られる。しかし、こうした市民の試みは、しばしば政治的圧力や検閲に晒される。特にテロ事件や軍事衝突の直後には、和平を語ることすら「非国民」とされ、沈黙を強いられることも少なくない。それでも多くの人々が、「対話の橋を壊さぬように」と、SNSやオンライン会議を活用して関係を保とうとしている。
若い世代のなかにも、戦争ではなく共生を選びたいと願う人々がいる。インドとパキスタンで人気のあるクリケットの試合などを通じて、「共に歓声をあげる」経験が、知らず知らずのうちに互いの距離を縮めていることもある。音楽、料理、言語といった「共通の文化資産」は、分断された世界を繋ぎ直す鍵となり得る。政治的には解決が難しくとも、市民レベルでの信頼回復こそが、真の平和の基礎となる。そうした努力が根を張り続ける限り、この対立にも希望の光が差し込む余地は残されている。
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*** 今週の教養(インド・パキスタン問題⑤)
【第5回】未来への模索―経済協力と共生への可能性
インドとパキスタンの対立は、過去の記憶に縛られたまま進んできた。しかし21世紀に入り、地球規模の課題が山積する今、両国にとって「対立の継続」よりも「協力の模索」が現実的な選択肢となりつつある。とりわけ経済・環境・テクノロジーといった分野では、相互依存の可能性が見え始めている。
実際、インドとパキスタンは同じ南アジアという地域に属し、歴史的にも文化的にも深いつながりを持つ。農業やエネルギー、水資源の管理といった問題は、国境を越えて影響を及ぼす。たとえばインダス川流域の水資源をめぐる「インダス水条約」は、対立の最中でも機能し続けており、外交対話のモデルともなっている。また、両国の経済は補完関係になっている面もある。インドのテクノロジー産業や映画産業(ボリウッド)はパキスタンでも人気があり、パキスタンの繊維製品や農産物もインド市場で一定の需要がある。経済連携が進めば、敵意よりも利害の一致が国交を支える土台となる可能性もある。
とはいえ、実際には政治的対立が経済交流の進展を阻んできた。2019年の印パ間の軍事的緊張を機に、貿易関係は事実上凍結され、ビザ発給や文化交流も停止された。互いに「敵意を煽る」言説が国内政治の支持を集める構造がある限り、こうした関係改善は容易ではない。
それでも近年では、民間企業やスタートアップの世界で、国境を越えたオンライン協業が始まりつつある。ITや教育分野では、リモート環境を通じてインド人とパキスタン人の若者が出会い、共同プロジェクトに取り組む例も出てきた。国境を越えるインフラ整備や、共通の災害対応システム構築も、いずれは協力の足がかりとなりうる。また、移民や留学生として欧米に渡った両国出身者のあいだでは、「国外だからこそ実現できる」協力関係も生まれている。第三国の地で、宗教や国籍を超えた友人関係が育まれ、将来的に和平を後押しする新しい世代の基盤になっているのだ。
歴史は一朝一夕では変わらない。だが、人と人とのつながり、経済の論理、地球規模の連携といった「未来からの逆照射」によって、インドとパキスタンの関係もゆっくりと、新たな地平を模索している。今回の戦闘は、こうした状況の中で起きた。希望とは、過去を忘れることではなく、「未来のために、過去とどう向き合うか」という問いの中にある。今回は停戦したが、長年の対立が解消したわけではない。日本人も関心を持ち続けたい地域だ。