反戦・非戦の系譜 海外編(2025年7月28日~8月1日)

*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 海外編①)
日本の夏は「戦争を考える季節」でもある。「安全保障環境の悪化」を理由に軍事費を増やす国が多くなっているが、各国にそんな余裕があるのか。国民の生活は守られるのか。緊張を増すだけではないか。そんな疑問が強い。核兵器が拡散し、無人兵器で永久に殺し合うような時代だからこそ、非戦・反戦の意義が増している。理想論ではなく、一般の国民にとっては非戦・反戦こそが現実論ではないか。2週間にわたり、「非戦・反戦の系譜」を特集する。今週は海外編。
イマヌエル・カント(1724–1804) 18世紀ドイツを代表する哲学者であり、近代哲学の基礎を築いた思想家として知られる。生涯の大半を東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で過ごし、認識の革新をもたらした。功績は純粋理性批判や倫理学にとどまらず、「永遠平和のために」(1795年)という小著において、戦争の否定と恒久的な平和の実現を哲学的に構想したことにもある。
「永遠平和のために」は、当時ヨーロッパで頻発していた戦争、特に革命後のフランスと諸王政国家との対立という時代に書かれた。平和はただの夢想ではなく、理性に基づいた「義務」として捉えるべきだと主張する。彼の提唱する「永遠平和」の条件は、国際秩序のための6つの「予備条項」と3つの「確定条項」からなり、主なポイントは次の通りである。
第1に、国家は共和制であるべきだという。君主が独断で戦争を始める専制主義に対し、市民が戦争の負担を被る共和制では軽々に戦争に踏み切れないと論じる。第2に、国家間の連合(国際連盟的なもの)を提唱する。統一政府ではなく、各国の主権を保ったままの法的枠組みとして設計される。第3に、他国への干渉や転覆を禁じ、互恵的な外交と信義に基づく関係を重視する。
カントの平和思想は、単なる理想主義ではない。彼は人間の「悪」と戦争の傾向を現実的に認めた上で、それを克服するための理性的な枠組みを設計した。根底には「定言命法(無条件の道徳法則)」に基づく倫理観がある。「汝の行為が同時に普遍的法則となるように行為せよ」という倫理規範は、戦争に訴えることを否定し、平和を維持することこそ人間の理性にかなう行為だと説く。
カントの思想は、後世に大きな影響を与えた。20世紀に設立された国際連盟や国際連合の理念の源泉の1つとされ、現代の国際法や人権思想、世界市民の概念にも深く通じている。ジョン・ロールズやユルゲン・ハーバーマスといった政治哲学者にも継承され、民主主義と国際協調の理論的基盤として重視されている。現在のグローバル社会においてもなお問いを投げかけている。永遠平和とは到達できない理想か、理性による実践的課題か――カントはその可能性を信じ、思想として結晶させた。
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*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 海外編②)
レフ・トルストイ(1828–1910) ロシアを代表する文豪であると同時に、深い宗教的・道徳的探究を通じて非戦・非暴力思想を展開した思想家でもある。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』といった文学作品で知られるが、貴族の出自を持ちながらも、人生の後半には富や名声を否定し、農民的で質素な生活と、キリスト教に基づく愛と平和の実践を追求した。単なる個人の信仰にとどまらず、後世の非暴力運動にまで影響を与える世界的な潮流を生み出すこととなる。
非戦思想の出発点は、晩年の宗教的転換にある。ロシア正教会に反発し、イエス・キリストの教え、とくに「敵を愛せ」「悪に抵抗するな」といった福音書の言葉を文字通りに受け取った。この理解に基づき、いかなる暴力も道徳的に否定されるべきだと考えるようになる。戦争はもちろん、国家による徴兵や死刑、さらには反乱や革命による暴力もすべて否定した。
その主張は、そのまま非戦・非服従の思想へと結実する。代表作『神の国はあなたがたの中にある』(1894年)では、国家という権力装置が人々に対して暴力を正当化している現実を厳しく批判し、良心に従って国家の命令に逆らうことの重要性を説いた。真の信仰とは制度や権威に従うことではなく、自らの内なる声(良心)に従って愛と非暴力を実践することだった。
インドのマハトマ・ガンディーは南アフリカ滞在中にトルストイの著作に出会い、深く感銘を受けた。2人は書簡を交わし、トルストイの思想はガンディーの非暴力・不服従運動の根幹となる。アメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアにも間接的に影響を与え、20世紀の平和運動や公民権運動にも連なっていく。トルストイは自らを「無政府主義的キリスト教徒」と称し、国家や軍隊を否定する思想を唱え続けた。
トルストイの非戦主義の意義は、単に戦争への反対にとどまらず、「生き方」そのものを問う哲学的態度にある。暴力と支配を前提とした近代国家のあり方に根本的な疑問を投げかけ、人間が本来持つべき愛と良心に基づいた社会の可能性を訴えた。彼の思想は過激でもあったため、ロシア政府や正教会からは異端視され、晩年は孤立しながらもその信念を曲げることはなかった。
トルストイの非戦思想は今日、国家権力と個人の良心との葛藤、暴力を正当化する社会構造の批判として読み直されている。戦争が絶えず続く現代にあって、彼の問い――「我々は本当に敵を愛しているか?」「殺さずに生きることは可能か?」――は、今なお重く響く。トルストイは、自らの思想と生き方を一致させようと苦闘し続けた「実践の人」であり、その姿勢が非戦思想の本質を体現していたと言えるだろう。
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*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 海外編③)
ジョン・レノン(1940–1980) イギリスのリヴァプール出身のミュージシャン、作詞・作曲家、平和活動家である。伝説的バンド「ビートルズ」の中心人物として世界的な名声を得た後、音楽の枠を超えて、戦争と暴力に対する根源的な問いを社会に投げかけた。彼の反戦・平和思想は、理論ではなく「歌」と「行動」によって表現され、20世紀後半のカウンターカルチャーの象徴ともなった。
レノンの反戦活動が最も色濃く現れるのは、ビートルズ解散後、妻オノ・ヨーコとともに行った一連の平和運動である。1969年、2人は「ベッド・イン」と呼ばれる奇抜な抗議行動を実施した。ハネムーン先のホテルに1週間こもり、ベッドの上でメディアに向かって「平和を想像せよ」と語り続けたのだ。これらのパフォーマンスはしばしば嘲笑の対象ともなったが、彼らはそれを恐れず、むしろ「平和を訴えるには、騒ぎを起こさなければならない」と信じていた。
そのメッセージは、代表曲「イマジン(Imagine)」に結晶する。1971年に発表されたこの歌は、国境も宗教も所有もない世界を夢見ることで、戦争や分断のないユートピアを描いた。レノンは「これは共産主義のマニフェストと受け取られるかもしれないが、人類愛の歌だ」と語っている。単純なメロディに込められた問いは鋭く、なおかつ普遍的である。「想像してごらん、国がない世界を――殺す理由も死ぬ理由もない」と歌われ、その言葉は思想や体制を超えて、人々の心に届いた。
ベトナム戦争の泥沼化が続くなか、レノンはアメリカ政府からも危険視される存在となった。FBIは彼の活動を監視し、移民局は国外追放を試みた。だが、レノンは一貫して「愛と平和」をキーワードに、音楽と行動によって反戦を訴え続けた。政治家でも哲学者でもない彼が、多くの若者たちに影響を与えたのは、言葉ではなく「生き方」によってメッセージを伝えたからだ。
歴史的意義は、反戦思想をポップカルチャーと結びつけ、大衆レベルで平和を語る力を可視化した点にある。アカデミズムでも宗教でもなく、ギターとマイクで世界に問いかけた。社会や政治に対する鋭い批評精神をもちながらも、怒りではなく想像力と愛を武器にしたその姿勢は、非暴力の理想を音楽の言葉で体現したものだった。
1980年、ニューヨークの自宅前で凶弾に倒れたが、メッセージは死によってかえって強く生き続けることとなった。現在でも「イマジン」は世界の平和式典や抗議運動で歌われ続けており、思想は音楽とともに次世代へと受け継がれている。「夢想家(ドリーマー)」であることを恐れず、「自分ひとりではない」と信じ、世界に向かって静かに、しかし確かに非戦メッセージを響かせ続けている。
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*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 海外編④)
墨子(ぼくし、紀元前470年頃~紀元前391年頃) 中国戦国時代の思想家で、儒家と並ぶ重要な学派「墨家」の開祖である。儒家の家族中心主義を批判し、実利と平等、「非攻(ひこう)」という戦争の否定を説いた。思想は極めて実践的で、弱者や小国を守るために戦争を否定し、力の濫用を批判する倫理的な視座に貫かれている。東アジア思想史のなかで、明確な「反戦」の立場を最初に体系立てた人物と言ってよい。
貧しい庶民の出身とされ、儒家の学問を学んだ後に決別し、独自の道を歩む。思想の中心には「兼愛」と「非攻」がある。兼愛とは、すべての人を分け隔てなく愛すること。儒家は「親を最も愛すべし」と説いたが、墨子はそれでは差別と争いが生じるとし、「他人の父母も自分の父母と同じように愛するべきだ」と主張した。
兼愛の実践として現れるのが非攻の思想である。墨子は「戦争とは人を殺し、国を滅ぼし、財を奪い、民を苦しめる不義そのものだ」と断じた。大国が小国を攻めるのは盗賊と変わらない行為であり、道徳的に許されないと説く。著作『墨子』の中には、実際に攻撃を受けようとする小国に赴いて防衛の技術を授けるエピソードもあり、思想だけでなく実行の人でもあったことが窺える。
工学や軍事技術にも精通し、戦争を否定するために「守る技術」に力を注いだ。単なる理想主義ではなく、現実の力関係と暴力を認識したうえで、それを最小限に抑えるための合理的な手段だった。墨家集団は高度な組織力を持ち、各地を巡って戦争の抑止に奔走した。実践的姿勢は、戦国時代において極めて異色であり、哲学者でありながら社会運動家・技術者としての側面も持っていた。
墨子の非戦思想の歴史的意義は、中国思想において初めて「戦争の不道徳性」を体系的に論じ、普遍的な愛の原理から政治を正すべきだとした点にある。後世の法家や道家、さらには日本や韓国における平和思想にも影響を及ぼしている。儒家が時の権力と結びついて制度化されていったのに対し、墨家は反体制的な思想として徐々に姿を消していったが、20世紀以降、再評価が進んでいる。
特に現代において、「力による支配」や「国益のための武力行使」が再び台頭するなか、墨子の「非攻」「兼愛」の思想は、国境を越えた倫理として注目されている。「なぜ他国を攻めるのか?」「殺す理由は何か?」という問いは、21世紀の人たちにも鋭く突きつけられている。
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*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 海外編⑤)
胡適(こてき、Hu Shih、1891–1962) 近代中国を代表する思想家・文学者・教育者であり、「白話(日常語)運動」の旗手として中国の言語・文学・思想に革命をもたらした。暴力や革命による社会変革を批判し、理性と漸進的改革によって平和と民主を実現すべきだと説いた。20世紀中国における代表的な「非戦・反暴力の知識人」として、独自の歴史的役割を果たすこととなる。
清末の安徽省に生まれ、アメリカのコーネル大学とコロンビア大学に留学し、哲学者ジョン・デューイに師事した。帰国後は北京大学教授として、旧来の漢文による文語文学に対し、日常語による新文学を提唱。「五四運動」と重なり、中国の若者たちに新たな思考と表現の可能性を開いた。思想の根底には、デューイ流のプラグマティズム(実用主義)があり、抽象的な理論ではなく、「実験と改善」によって社会を良くすることを信じていた。
その延長線上に、胡適の非戦・反暴力の立場がある。急進的な共産革命や、暴力的手段による体制転覆を否定し、自由な言論と教育、制度の漸進的改革によって社会を変えるべきだと考えた。とくに国民党と共産党の内戦、さらには抗日戦争の渦中でも、胡適は一貫して理性と対話を重視し、知識人が感情やイデオロギーに流されることへの警鐘を鳴らし続けた。
1930年代、「容共不容暴力」(共産主義に一定の理解は示すが、暴力革命は容認しない)という立場をとった。当時の中国においては異端に近く、左派からも右派からも批判を浴びたが、彼は「思想の自由」「個人の尊厳」を守るために、いかなる強制的権力にも屈しなかった。反戦というよりも「反暴力」「反専制」と言ったほうが適切であり、その根底には深い人間観と啓蒙主義がある。
国際的な視野を持ち、戦争による国家主義の高揚や、ヒステリックな排外主義に反対した。太平洋戦争前夜には、国際連盟の理念を支持し、国際協調による紛争解決を主張していた。戦後は中華民国の駐米大使としても活躍し、冷戦下でも極端な反共・反米に与せず、自由と対話の道を模索した。国共内戦を経て台湾に移り、1958年に中研院院長となり、学問の自由・言論の自由を守る砦として台湾の知的基盤を築いた。彼の自由主義的・非暴力的立場は、後の台湾の民主化にも間接的に影響を与えている。
胡適の歴史的意義は、「暴力ではなく理性を」「革命ではなく改革を」「独裁ではなく自由を」というメッセージを守り抜いた点にある。理想を語るだけでなく、自らの知識と立場をもって、冷静に、粘り強く、暴力に抗し、「沈黙しない良心」として、多くの知識人のモデルとなった。今日においても「われわれは、感情や怒りではなく、理性と対話によって、平和を築く覚悟があるのか」と問いかけている。