中東問題の起源(2025年9月29~10月3日)

*** 今週の教養講座(中東問題の起源①)
今週はイスラエルのガザ攻撃で注目が高まっている中東問題を考えます。紀元前からの歴史を持つ対立で、日本から遠いこともあって理解しにくい面があります。しかし、中東の原油は日本のエネルギーを支えています。大国が深く関係しており、世界秩序の行方に大きな影響を与える地域です。くわしく理解する一歩は歴史です。シオニズム運動が始まった19世紀以降の基本的な流れを紹介します。
第1回 シオニズム運動と中東の舞台設定(19世紀末~第一次世界大戦) 19世紀後半、ヨーロッパではユダヤ人差別(反ユダヤ主義)が根強く存在しました。特にロシア帝国ではユダヤ人への暴動(ポグロム)が頻発し、多くのユダヤ人が命の危険にさらされました。さらに、ドイツやフランスなどでも、ユダヤ人は社会的に排除されることが多く、ユダヤ人の「安全な居場所」作りが真剣に考えられるようになります。
この流れの中で登場したのがシオニズム運動です。シオニズムとは、ユダヤ人が古代に住んでいたとされるパレスチナを民族の故地とみなし、国家を建設するという思想でした。提唱者の1人であるオーストリアのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは1897年にスイスで「第1回シオニスト会議」を開き、ユダヤ人国家建設を目標として掲げます。一方、当時パレスチナはすでに多くのアラブ人が住んでおり、オスマン帝国の支配下にありました。ユダヤ人が「歴史的な故郷」と考えていた土地は、すでに他の民族の生活の場でもあったのです。
第一次世界大戦(1914~18年)が勃発すると、事情はさらに複雑になります。イギリスは戦争の勝利を目指して、矛盾する約束をいくつも交わしました。アラブ人には「戦争に協力すれば、オスマン帝国から独立を認める」と約束しました(フサイン=マクマホン協定)。一方で、フランスと共に中東を分割する秘密協定(サイクス=ピコ協定)を結び、さらにユダヤ人には「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土をつくることを支持する」と表明しました。これが1917年のバルフォア宣言です。
つまり、同じ土地に対して「アラブ人に独立を」「ユダヤ人に国家を」「列強で分割」と、3重の約束がなされたのです。これが後に深刻な対立を生む原因となりました。戦争の結果、オスマン帝国は崩壊し、パレスチナはイギリスの「委任統治領」となります。ここから、ユダヤ人移民とアラブ人住民の対立が本格的に始まっていきました。
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*** 今週の教養講座(中東問題の起源②)
第2回 イスラエル建国とパレスチナ難民の誕生(1920年代~1948年)
第一次世界大戦後、イギリスの委任統治下でパレスチナにはユダヤ人の移住が本格化しました。ヨーロッパ各地から迫害を逃れたユダヤ人が次々と移住し、農場や集団生活の村(キブツ)を建設しました。アラブ人はこれに強く反発し、1920年代から30年代にかけて暴動や衝突が繰り返されました。
さらに状況を一変させたのが、1930年代のナチス・ドイツの台頭です。ヒトラー政権下でユダヤ人は徹底的に迫害され、最終的には第二次世界大戦中に600万人ものユダヤ人が虐殺される「ホロコースト」が起きました。これにより「ユダヤ人には安全な国が必要だ」という国際世論が強まり、シオニズム運動は大きな追い風を受けます。
1947年、国際連合は「パレスチナ分割決議」を採択しました。これはパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分け、エルサレムは国際管理下に置くという案です。ユダヤ人はこれを受け入れましたが、アラブ側は「自分たちの土地を勝手に分けるのは不当だ」として反発しました。
翌1948年、イギリスがパレスチナから撤退すると、ユダヤ人指導者ベングリオンがイスラエル建国を宣言しました。これに対して周辺のアラブ諸国(エジプト、シリア、ヨルダン、イラク、レバノンなど)が一斉に攻撃を開始して介入し、第一次中東戦争が勃発しました。
戦争の結果、イスラエルは国連の分割案よりも広い領土を獲得しました。その一方で、数十万人のパレスチナ人が家を追われ、難民となって周辺国に逃れました。これが今日まで続く「パレスチナ難民問題」の出発点となります。
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*** 今週の教養講座(中東問題の起源③)
第3回 度重なる中東戦争とパレスチナ解放運動(1950~1970年代) イスラエル建国後も、アラブ諸国とイスラエルの対立は深まりました。1948年の第1次中東戦争で多くのパレスチナ人が難民となり、その悲劇は「ナクバ(大災厄)」と呼ばれています。難民は、ヨルダン川西岸やガザ、周辺のアラブ諸国に移り住みましたが、故郷に戻ることは許されませんでした。
1956年、第2次中東戦争が起こります。発端はエジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化したことです。反発したイギリス・フランス・イスラエルが軍事行動を起こしました。しかしアメリカやソ連が介入し、結局エジプトがスエズ運河の支配を維持します。この戦争を通じて、ナセルはアラブ民族主義の英雄として広く支持を集めました。その後もイスラエルとアラブ諸国の緊張は続きます。1967年、第3次中東戦争(6日戦争)が勃発しました。イスラエルはエジプト・シリア・ヨルダンの軍に先制攻撃を仕掛け、わずか6日で圧勝します。この結果、イスラエルはガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレム、シナイ半島、ゴラン高原を占領しました。パレスチナ人はさらに多くの土地を失い、難民が増加しました。
イスラエルによる占領は国際社会から非難を受けました。国連は「イスラエルは占領地から撤退すべき」との決議を出しましたが、実際には撤退は行われず、緊張が続きました。1973年、第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)が起こります。ユダヤ教の祭日にエジプトとシリアがイスラエルに奇襲を仕掛け、一時はイスラエルが劣勢に立たされました。しかし最終的にはイスラエルが反撃に成功し、停戦となりました。この戦争の影響で石油を輸出するアラブ諸国は「石油を武器」として使い、日本を含む世界にオイルショックを引き起こしました。
この時期、パレスチナ人自身も組織的に行動を始めます。1964年にはパレスチナ解放機構(PLO)が結成され、指導者アラファトが「パレスチナの独立国家建設」を訴えました。PLOはゲリラ活動やハイジャックなどの武装闘争を行い、国際的な注目を集めましたが、「テロ組織」と批判されることもありました。1970年代までに、イスラエルとアラブ諸国の戦争、パレスチナ人の抵抗運動、世界経済をも揺るがす石油危機が連動し、中東問題は国際社会にとって避けて通れない大問題となっていきました。
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*** 今週の教養講座(中東問題の起源④)
第4回 和平交渉とその行き詰まり(1980~2000年代) 1970年代まで続いた戦争の後、国際社会では「武力ではなく交渉によって中東問題を解決すべきだ」という動きが強まりました。最初の大きな成果が、1978年のキャンプ・デービッド合意。アメリカ大統領カーターの仲介で、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が合意し、翌年のエジプト=イスラエル平和条約で両国は正式に国交を結びました。イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還し、中東で初めて「イスラエルを認めるアラブ国家」が誕生しました。
この動きはアラブ世界の分裂を生みました。エジプトは「アラブの裏切り者」と非難され、サダト大統領はその後暗殺されてしまいます。1980年代に入ると、占領下のパレスチナで人々の怒りが爆発しました。1987年、ガザやヨルダン川西岸で住民が石を投げて抵抗する「第一次インティファーダ(民衆蜂起)」が始まります。これにより「パレスチナ問題」は国際社会に再び強く意識されるようになりました。
1993年には歴史的な転機が訪れます。ノルウェーで秘密裏に進められた交渉を経て、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が「オスロ合意」に署名しました。合意では、イスラエルが占領地の一部から撤退し、パレスチナ人に自治を認めること、PLOはイスラエルを承認することが取り決められました。両者がホワイトハウスの庭で握手する姿は世界中に報道され、「ついに和平が実現する」と期待されました。
ところが、和平は長続きしませんでした。イスラエル国内では合意に反対する右派が反発し、1995年にはラビン首相が過激なユダヤ人によって暗殺されます。パレスチナ側でも、合意を「裏切り」と見なす組織(イスラム原理主義組織ハマスなど)が台頭し、自爆テロや武力攻撃を繰り返しました。2000年には和平の最終合意をめざした「キャンプ・デービッド会談」が開かれましたが、エルサレムや難民帰還の問題で折り合えず決裂。その後、イスラエルの首相シャロンがエルサレムの聖地を訪問したことをきっかけに、第2次インティファーダが勃発しました。暴力の連鎖は再び激化し、和平の機運は大きく後退してしまいました。1980~2000年代は「前進と後退」の時代でした。
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*** 今週の教養講座(中東問題の起源⑤)
第5回 ガザ問題と現在の中東情勢(2000年代~現在) 2000年代に入ると、イスラエルとパレスチナの対立は「ガザ地区」を中心に激化しました。ガザは地中海沿岸の小さな地域で、人口は200万人以上。しかし資源が乏しく、経済的に脆弱です。ここに住む人々の多くは1948年の戦争で追われたパレスチナ難民やその子孫です。
2005年、イスラエルはガザ地区から入植者と軍を撤退させました。しかし、国境や空域、海の出入り口はイスラエルとエジプトが厳しく管理し、ガザの人々は自由に外へ出ることが難しい状態が続きました。2006年のパレスチナ議会選挙では、イスラム主義組織のハマスが勝利します。ハマスはイスラエルの存在を認めず、武装闘争を掲げているため、アメリカやEU、日本など多くの国は「テロ組織」と位置づけています。その後、ガザはハマスが実効支配する地域となり、ヨルダン川西岸を統治する穏健派のファタハ(PLO系)と分裂しました。
これ以降、ガザからイスラエルへのロケット攻撃、イスラエルの大規模軍事作戦という報復の連鎖が繰り返されます。2008年、2014年などには数千人規模の犠牲者を出す戦闘が発生しました。ガザは封鎖と戦闘によって「天井のない監獄」とも呼ばれるほど、生活が困難な地域となっています。さらに2021年、そして2023年以降もイスラエルとハマスの間で衝突が激化しました。特に2023年10月、ハマスが大規模攻撃を仕掛け、イスラエル側でも多数の犠牲者が出ました。これに対しイスラエルはガザに対する空爆と地上侵攻を行い、民間人を含む甚大な被害が発生しました。国際社会では「テロを許さない」と「人道危機を防げ」という両方の声が上がり、対立の深さを示しています。
中東問題は単に「イスラエル対パレスチナ」だけではありません。イランやサウジアラビア、アメリカ、ヨーロッパ諸国などもそれぞれの立場から関与し、地域全体の緊張を高めています。イスラエルとアラブ諸国の一部(UAEやバーレーンなど)は2020年に「アブラハム合意」を結んで国交を正常化しましたが、パレスチナ問題は依然として解決されていません。重要なことは、「中東問題は100年以上前の歴史的な約束や戦争の積み重ねの上にあり、宗教・民族・政治・経済が複雑に絡んでいる」という点です。簡単に「どちらが悪い」とは言えません。だからこそ世界中の人々が注目し、解決が求められています。