「今こそプラグマティズム」(2026年1月26~30日)

*** 今週の教養講座(今こそプラグマティズム

世界各地で分断が進んでいます。厳しい時代だからこそ、協調が求められるはずですが、自らの主張にこだわって歩み寄りができない状況です。どうしたらいいでしょうか。現実をよく観察し、何がお互いにとってプラスかを対話で見極める姿勢が必要ではないでしょうか。功利主義と訳される米国発の「プラグマティズム」が役に立ちそうです。「現実主義=リアリズム」とも近い考え方です。「日本のプラグマティズム入門」(荒木優太著)などを参考に生成AIとも対話しながら、総選挙をプラグマティズムを考えます。

正しさが世界を壊すとき――分断の時代診断   いま世界は、かつてないほど「正しさ」を主張し合っているように見える。民主主義か、権威主義か。多様性か、伝統か。自由か、安全か。大国の支配か、法の支配か・・・。しかし不思議なことに正しさが増えるほど、世界は息苦しくなっている。対話は減り、相手を理解しようとする姿勢は後退し、「敵か味方か」という単純な線引きが社会を覆っている。SNSを見れば、異なる意見はすぐに「間違い」「危険」「排除すべきもの」として処理される。

なぜこうなったのだろうか。1つの理由は、「正しさ」が目的になってしまったことにあるのではないか。本来、正しさとは、よりよい結果を生むための手段のはずだった。人々がより安全に、より穏やかに、より幸福に生きるための道具だったはずだ。ところが今、正しさは自己目的化し、「勝つこと」「論破すること」「相手を黙らせること」にすり替わってしまったようだ。それが現実にどんな結果をもたらすのかは、あまり問われない。その結果、「正しいが、社会を壊す」「正しいが、分断を深める」という奇妙な現象が起きている。

重要なことは「どちらが正しいか」を決めることではない。問うべきは、「その正しさは、現実に役に立っているのか」「人々の生活を前に進めているのか」という点だ。価値観の違いは、昔から存在していた。分断の本質は、「違いを扱う知恵」を世界が失いつつあることだ。私たちは日常の中で、すでに似た考え方を使っている。例えば、新しいやり方を試してみたが、思ったほど成果が出なかった。そこで立ち止まり、やり方を少し変えてもう1度試してみる。健康のために始めた習慣が続かなかったときも、方法を変えて再挑戦する人は多いだろう。

ここで大切なのは、「失敗したから間違いだ」と切り捨てないことだ。うまくいかなかった経験そのものが、「次に何を変えればよいか」を教えてくれる。完璧な正解を探すより、試しながら少しずつよくしていく。寛容な試行錯誤の姿勢が、分断の時代に失われがちな知恵ではないか。ここで浮上してくるのが、プラグマティズムという思想である。

「何が正しいか」よりも、「それは現実にどう働くのか」を問う。理念や信条を否定するのではない。しかし、それらを絶対化もしない。結果を見て、修正し、よりよい形を探り続ける。その姿勢そのものを重視する。分断の時代に必要なのは、正しさを振りかざす勇気ではなく、「一度、正しさを脇に置いて考えてみる」勇気だろう。

    ◆

*** 今週の教養講座(今こそプラグマティズム②)

◎アメリカで生まれ、日本にもつながった「現実から考える哲学」  プラグマティズムは、19世紀後半のアメリカで生まれた思想である。南北戦争を経て、工業化と都市化が急速に進み、社会は大きく揺れ動いていた。理想や理念を掲げるだけでは、現実の問題が解決しない。そんな切実な状況が、この思想の背景にあった。ヨーロッパ哲学が「永遠の真理」や「普遍的原理」を重んじてきたのに対し、アメリカはきわめて実践的だ。移民国家で価値観は多様、共通の伝統や権威は弱い。だからこそ、「それは現実に役に立つのか」という問いが、思想の中心に据えられた。

プラグマティズムの出発点に立つ人物が、哲学者・論理学者のチャールズ・サンダース・パース。彼は、ある考えの意味は、それがどのような行為や結果を生むかによって明らかになると考えた。真理とは、頭の中に完成された形で存在するものではなく、行動と結果を通じて確かめられるものだ、という発想だ。

この考えを広く社会に伝えたのが、心理学者・哲学者のウィリアム・ジェイムズで、「真理とは、私たちの経験の中でうまく働くものだ」と述べる。真理を固定されたものとは考えず、状況が変われば、役に立つ考えも変わる。真理は道具のように使われ、磨かれていくものだ。

この思想を社会や教育、民主主義の問題にまで広げたのがジョン・デューイ。民主主義を完成された制度とは考えず、試行錯誤を通じて学び続ける「生きたプロセス」だと捉えた。政策や制度も、まず試し、結果を見て修正する。その繰り返しこそが、社会を前に進めると考えたのである。

このような発想は、日本も無縁ではない。日本にもプラグマティズム的な思考をした人びとがいた。代表は政治家・思想家の石橋湛山である。国家の理念や大義よりも、「それが国民の生活を豊かにするか」を政策判断の基準に据えた。植民地や国威発揚ではなく、結果として人々がどう生きられるかを問う姿勢は、実践的そのものだった。

政治哲学者の南原繁は、デューイの思想を受け止め、民主主義を固定した理想ではなく、不断に学び続ける制度として理解した。哲学者の鶴見俊輔は、思想を専門家のものに閉じ込めず、市民の生活や実践の中で考え続ける姿勢を貫いた。

思考の出発点は「国家」ではなく、「個人」である。プラグマティズムは、「正しさ」を掲げる前に、「それは現実にどう働くのか」を問う。この問いこそが、分断の時代を考えるための、確かな出発点になるはずだ。

    ◆

*** 今週の教養講座(今こそプラグマティズム③)

◎「いい加減」ではない――妥協を拒む思考の厳しさ  プラグマティズムと聞くと、「現実的」「柔軟」「妥協的」といった印象を持つ人が少なくない。「結局は場当たり的なのではないか」「原則を持たない考え方だ」という批判も聞かれる。しかし、この理解は的外れだ。プラグマティズムほど、「ごまかし」を嫌う思想はない。20世紀初頭、アメリカ社会は急激な変化に直面した。大量移民、都市のスラム化、労働争議、貧富の格差。理念を掲げるだけでは、問題は解決しない。そこで問われたのは、「その理想は、現実に機能しているのか」という点だった。

この厳しい問いを、教育と民主主義の現場で徹底したのがジョン・デューイ。彼は、学校教育を「知識の注入」ではなく、「問題解決の訓練」と捉えた。子どもたちが現実の課題に向き合い、試し、失敗し、考え直す。その過程そのものが学びだと考えたのだ。この発想は、当時としては革命的だった。正解を覚えることよりも、「考え続ける力」を重視する。これは、楽な教育ではない。教える側にも、学ぶ側にも、絶えず修正する覚悟を求めるからだ。

プラグマティズムが「何でもあり」と誤解される理由は、このあたりにある。この思想は、「何でもあり」ではなく、「結果で評価され続ける」思想である。一度うまくいっても、次も通用するとは限らない。昨日の正解が、今日の失敗になることもある。その現実から、目を背けることを許さず、間違いを受け入れる思考だ。

20世紀後半になると、冷戦という巨大な対立構造の中で、「正しさ」は再び硬直化する。資本主義か、社会主義か。自由か、統制か。この時代に、プラグマティズムを現代的に読み替えたのがリチャード・ローティだ。ローティは、「絶対的な基準」を探すこと自体が、分断を深めてきたのではないかと問いかけた。

重要なのは、最終的な真理を決めることではなく、「苦しむ人を減らす言葉や制度を選び続けること」だと考えた。逃げの思想ではなく、「自分は正しい」という安心感を手放し、常に問い直される立場に身を置く、非常に不安定で厳しい態度だ。分断の時代に必要なのは、強い正義ではなく、「その正義は、いま誰を救い、誰を追い詰めているのか」と問い続ける力である。

    ◆

*** 今週の教養講座(今こそプラグマティズム④)

SNSAI、民主主義――「正しさ」が暴走する時代に  いま私たちは、かつてないほど「意見を表明しやすい時代」に生きている。SNSを開けば、誰もが瞬時に立場を示し、賛否を表明できる。生成AIの普及によって、主張はさらに増幅され、整理され、拡散される。便利である一方で、社会は奇妙な緊張状態に置かれている。それは、「沈黙が許されにくい社会」だ。意見を言わないことは、無関心、あるいは加担とみなされる。結果として、人々は慎重に考える前に、まず立場を示すことを求められる。正しさはスピードを競い、深さを失っていく。

この現象は、民主主義とも深く関係している。民主主義は本来、時間のかかる制度である。異なる意見がぶつかり、妥協し、修正を重ねながら前に進む。しかし現代の情報環境は、その「回り道」を許さない。即断、即断罪、即評価。白か黒か、味方か敵か。中間は見えにくくなっている。ここで思い出したいのが、プラグマティズムの基本姿勢である。プラグマティズムは、意見そのものよりも、「その意見が現実に何をもたらすか」を問い続ける。言い換えれば、「その発言は、社会を少しでも良くしているか」という視点だ。

この考え方は、SNS時代にこそ重要になる。正しい主張でも、社会の対立を激化させ、対話の回路を断ち切るなら、その効果は再検討されるべきだ。逆に、完璧ではなくても、人々の行動を穏やかな方向に導くなら、それは意味を持つ。20世紀の哲学者ジョン・デューイは、民主主義を「完成形」ではなく、「不断に調整される実験」と考えた。民主主義とは、正解を一度決める制度ではない。状況が変われば、やり方も変える。その柔軟性こそが、民主主義の強さだと捉えたのだ。

現代のAI活用にも、同じ発想が求められる。AIを「善か悪か」で裁くのではなく、「どの場面で、どう使えば、人の判断を助けるのか」を検証し続ける。万能視も、全面否定も、どちらもプラグマティズム的ではない。分断の時代に必要なのは、「正しい意見」を増やすことではなく、「試し、修正し、学び続ける態度」を社会に埋め込むことだ。意見を言う前に、ひとつだけ問いを挟む。「この主張は、現実を少し前に進めるだろうか」。その一呼吸こそが、分断を和らげる最初の一歩になるだろう。

    ◆

~~~ 長谷川塾メルマガ 2026年1月30日号(転送禁止)~~~

*** 今週の教養講座(今こそプラグマティズム⑤)

◎それでも前に進める――日本と世界の「次の一歩」  分断の話が続くと、どうしても気持ちは重くなる。しかし、プラグマティズムは本来、悲観の思想ではない。むしろ、「それでも前に進める」と信じる、きわめて楽観的な知の姿勢だ。日本の現状を見ても、課題は山積している。少子高齢化、人口減少、財政制約、地方の疲弊・・・。海外に目を転じれば、中国や米国など大国との外交やつきあい方。「これまでの正解」が通用しなくなっている局面だ。かつて成功した制度や慣行が、いまは重荷になっている場面も少なくない。

ここで日本が陥りやすいのが、「正解探し」である。どこかに正解があるのではないか。過去に戻ればよいのではないか。誰かが決断してくれないか。こうした発想は、安心感を与えてくれるが、前進は生まない。プラグマティズムは、もっと現実的で、同時に希望に満ちた道を示す。「完全な答えはなくても、小さな改善はできる」という考え方だ。

例えば、地方創生。一気に成功モデルをつくろうとするから、うまくいかない。小さく試し、うまくいった部分を残し、だめな部分は変える。その積み重ねが、結果として地域の自信になる。働き方も同じだ。終身雇用か、成果主義か、二者択一で議論するから分断が生まれる。現場ごとに試し、調整し、納得度を高める。その過程を共有すること自体が、組織の力になる。

こうした発想の根底にあるのが、アメリカの哲学者ジョン・デューイの考え方である。彼は、民主主義を「完成された理想」ではなく、「学び続ける社会のあり方」と捉えた。間違えることは失敗ではない。学ばないことこそが失敗だ、という発想だ。この考え方は、日本と相性が悪くない。日本社会は本来、現場で工夫し、改善を重ねる力を持っている。

トヨタの「カイゼン」に象徴されるように、小さな試行錯誤を積み上げる文化がある。必要なのは、それを「正解主義」から解放することだ。分断の時代に、全員が同じ方向を向く必要はない。合意できなくてもいい。価値観が違ってもいい。それでも、「昨日より少し良い今日」を目指して、行動をつなげることはできる。

プラグマティズムが教えてくれる希望は、ここにある。未来は、誰かが設計図どおりにつくるものではない。試し、直し、話し合いながら、少しずつ形にしていくものだ。分断の時代だからこそ、問いを変えよう。「誰が正しいか」ではなく、「どうすれば、次の一歩を踏み出せるか」。この静かな思想は、日本と世界の未来を、確かに照らしている。