人はなぜ独裁を求めるのか(2026年2月2~6日)

*** 今週の教養講座(人はなぜ独裁を求めるのか①)

 世界で独裁的な政治指導者が増えている。なぜだろうか。独裁を求める大衆心理があるのだろうか。このあたりはヒトラーのファシズムに関連した研究の蓄積がある。解散・総選挙に打って出た高市首相も独裁的資質を持っているといえる。あまり人と会わず、1人で考える。今回の解散もそうだった。NHK討論番組のドタキャンには「嫌なことはしない」姿勢がうかがえる。首相は本来、国民の多様な声をまとめる仕事だが、「今度の選挙は国論を二分するテーマに取り組むため」という。その過程で異論を排除すると予想する見方が早くも出ている。若い人はそんな高市首相になぜひかれるのか。投票日を前に生成AIと対話しながら「独裁の社会心理」を考えてみた。

1回 不安と混乱が「決めてくれる人」を呼び寄せる――エーリッヒ・フロムと現代社会

 人は本当に自由を求めているのだろうか。ドイツの思想家エーリッヒ・フロム(1900~80)は、ナチス台頭期の社会心理を分析し、この問いに冷徹な答えを示した。人は自由を得ると同時に、不安と孤独を抱え込む。そしてその重さに耐えられなくなると、自由から逃げ、強い権威に身を委ねる――これがフロムのいう「自由からの逃走」である。

 近代社会では、身分や共同体の拘束から解放され、個人が自己決定することが理想とされてきた。しかし現実には、選択肢が増えるほど、責任と不安も増大する。失敗すれば自己責任とされ、正解は誰も教えてくれない。この状態が長く続くと、人は「自分で考えること」そのものに疲弊していく。

 現代の世界は、まさにこの状態にある。物価高、格差、戦争、気候変動、感染症。どれも個人の努力ではどうにもならない不安であり、しかも解決までに時間がかかる。民主主義は議論と調整を重ねる制度であるが、そのプロセスは遅く、結論は曖昧になりがちだ。すると人々は、「議論より決断」「説明より断言」を求めるようになる。 

独裁的な指導者は、ここに現れる。「私が責任を取る」「迷わず決める」「従えばいい」。こうした言葉は、政策の中身以上に、不安に疲れた人々の心を軽くする。フロムが指摘したように、それは力への憧れというより、思考と選択を手放す安堵なのである。

 日本も例外ではない。長引く経済停滞、将来不安、国際環境の不透明さの中で、丁寧な政策論争よりも、「覚悟」「強い姿勢」「進退をかける」といった表現が注目を集めやすくなっている。そこでは、何をどう実現するのかよりも、「誰が決めてくれるのか」が問われがちだ。 

フロムの警告は、独裁者の危険性以上に、人間の側の弱さを突いている。独裁は、突然現れる怪物ではない。不安に疲れた大衆が、「考えなくて済む安心」を選び取った結果として、静かに姿を現すのである。

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*** 今週の教養講座(人はなぜ独裁を求めるのか②)

第2回 「われわれ」と「敵」を欲する群集心理 ――ハンナ・アーレントと分断の時代

 独裁者は多くの場合、「敵」を必要とする。これは偶然ではない。ドイツ系ユダヤ人の政治思想家ハンナ・アーレント(1906~75)は、全体主義の本質を分析する中で、人々が独裁に引き寄せられる背景に「孤立した個人」の存在を見いだした。孤立とは、単なる1人暮らしではない。社会との意味あるつながりを失い、自分の存在が誰にも承認されていないと感じる状態である。

 現代社会は、表面的にはつながりに満ちている。SNSで誰とでもつながれ、情報はあふれている。しかしその実態は、断片的で不安定な関係の集合にすぎない。職場、地域、家族といった持続的な共同体は弱まり、「自分は何者なのか」という感覚を得にくくなっている。

 この空白を埋めるのが、「われわれ」と「敵」という単純な構図である。独裁的指導者は、「国民」「普通の人々」「真の愛国者」といった言葉で「われわれ」を定義し、その外側に「敵」を置く。敵は外国勢力、移民、エリート、メディア、あるいは異論を唱える者たちである。複雑な社会問題は、敵の存在によって一気に単純化される。

 アーレントが恐れたのは、憎悪そのものよりも、この単純化がもたらす思考停止だった。敵が設定されると、人は自ら考える必要がなくなる。問題の原因はすでに示され、感情の行き先も用意されているからだ。怒りや不満は「敵」へと安全に放出され、同時に「われわれ」の一員であるという安心感が得られる。

 この構図は、現代世界で繰り返し確認できる。欧米では移民やグローバリズムが敵として語られ、国際機関や専門家が「民意を無視する存在」として攻撃される。戦争や経済制裁をめぐっても、事実関係より「どちらの側に立つのか」が先に問われる。

 日本でも、同様の兆しは見える。安全保障、外国人労働者、教育、メディア報道をめぐり、「批判する者は非国民だ」「反対派は国益を損なう」といった言葉が飛び交う場面が増えている。そこでは議論の中身より、立場の純度が重視される。

 アーレントの洞察が示すのは、独裁の出発点が熱狂ではなく、孤立という点である。人々が安心して異論を交わせる関係を失ったとき、社会は「敵」を必要とする。そして、その敵を最も巧みに供給できる者が、独裁者として選ばれていくのである。

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*** 今週の教養講座(人はなぜ独裁を求めるのか③)

第3回 「考えない自由」を与える支配 ――アドルノと権威主義的パーソナリティ 

独裁を支持するのは、知識の乏しい人々なのだろうか。戦後、この素朴な問いに正面から挑んだのが、ドイツの哲学者テオドール・アドルノ(1903~69)らによる「権威主義的パーソナリティ」研究である。彼らの結論は意外なものだった。独裁に惹かれるのは無知だからではない。むしろ、不確実さや曖昧さに耐えられない心理傾向が強く関係している。

 アドルノが描いた権威主義的性格の特徴は、強者への服従と弱者への攻撃、白黒をはっきりさせたがる思考、秩序や規律への過剰な執着である。世界は本来、複雑で矛盾に満ちている。しかし、その複雑さに向き合うことは疲れる。そこで人は、「正解」を断言してくれる権威に判断を委ねることで、心の負担を軽くしようとする。

 この心理は、現代社会でいっそう強化されている。情報は過剰に流れ、専門家の意見も割れる。どれが正しいのか、自分で考え続けるには、時間も知力も必要だ。その結果、「細かい話はいいから結論を言え」「誰が悪いのかはっきりさせろ」という欲求が高まる。独裁的指導者の断定的な言葉は、この欲求にぴたりと合致する。

 注目すべきは、独裁が「思考を奪う」だけでなく、「考えない自由」を与える点である。判断を上に委ねることで、個人は責任から解放される。間違っても、「自分で決めたわけではない」と言える。この心理的免責は、権威への服従を加速させる。

 日本社会でも、この傾向は無縁ではない。前例踏襲や空気を読む文化は、状況によっては安定をもたらすが、不確実な時代には「決めてくれる人」への依存を生みやすい。政治や社会問題でも、「専門家が決めるべきだ」「政府が責任を持って決断すればいい」という声が強まると、議論の余地は急速に狭まっていく。

 アドルノの研究が示したのは、独裁の危険が特別な思想から生まれるのではなく、誰もが持つ「考え続けることへの疲れ」から生じるという事実である。独裁とは、強制される支配であると同時に、差し出される安楽でもある。その安楽を受け取るかどうかは、常に私たち自身に委ねられている。

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*** 今週の教養講座(人はなぜ独裁を求めるのか④)

第4回 民主主義の「遅さ」への苛立ち ――トクヴィルと即効性の政治

 民主主義は、なぜ独裁に押し流されやすくなるのか。その一因として、フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィル(1805~1859)が早くから指摘していたのが、民主主義の「遅さ」である。民主主義は本質的に、議論し、合意を探り、妥協する制度だ。そこでは時間がかかり、結論は必ずしも明快ではない。この性質が、危機の時代には致命的な弱点となる。

 トクヴィルは、民主主義社会の人々は平等を好む一方で、煩雑な政治過程に忍耐力を失いやすいという。生活が不安定になり、将来が見通せなくなると、人々は「正しいかどうか」よりも「早く何かをしてほしい」と感じるようになる。こうして、決断の速さそのものが価値として評価され始める。

 現代世界は、常に「緊急事態」にさらされている。戦争、テロ、感染症、経済危機、自然災害。こうした事態に直面すると、民主主義の手続きは「悠長」「無責任」に映る。議会での議論や専門家の検討は、「何も決めていない証拠」のように受け取られ、強い指導者の即断即決が魅力的に見えてくる。

 独裁的リーダーは、この苛立ちを巧みに利用する。「議論ばかりで国は前に進まない」「既得権や反対派が邪魔をしている」と語り、民主主義の手続きを敵として描く。重要なのは、実際に成果が出るかどうかより、「決断している姿」を見せることである。行動しているという印象が、不安を和らげるからだ。

 日本でも、同様の傾向は見られる。経済対策、財政、少子化、安全保障、災害といった長期課題に対し、丁寧な議論よりも「トップの決断力」が求められる場面が増えている。選挙においても、政策の精密さより、「覚悟」「断行」「進退をかける」といった言葉が支持を集めやすい。そこでは、民主主義のプロセスそのものが、しばしば軽視される。

 トクヴィルの洞察が示すのは、民主主義が自壊する危険は、外部からの暴力ではなく、内部の「あせり」から生まれるという点である。人々が「待てなくなった」とき、民主主義は重荷となり、独裁は効率的な代替案に見えてしまう。

 しかし、民主主義の遅さは欠陥であると同時に、暴走を防ぐ安全装置でもある。時間をかけることは、誤りを修正し、少数者の声を拾い上げるために必要なのだ。即効性への渇望が高まる時代だからこそ、その遅さの意味が改めて問われている。

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*** 今週の教養講座(人はなぜ独裁を求めるのか⑤)

第5回 「普通の服従」が独裁を完成させる ――ミルグラム実験と「凡庸な悪」

 独裁体制は、強烈なカリスマや暴力だけで成り立つわけではない。むしろ、それを日常として支えるのは、ごく普通の人々である。この事実を冷酷なまでに示したのが、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラム(1933~1984)の服従実験であり、ハンナ・アーレントが名づけた「凡庸な悪」であった。

 ミルグラムの実験では、被験者の多くが、権威者の指示に従って他者に強い電気ショックを与え続ける形になった。彼らは残虐な人間ではなかった。むしろ「指示されたから」「責任は自分にないから」という理由で行動していた。アーレントがナチス戦犯アイヒマンに見たのも、狂気ではなく、思考停止した平凡さだった。

 ここで重要なのは、悪が情熱からではなく、無批判な服従から生まれる点である。独裁は、人々に「命令に従っているだけ」という心理的逃げ道を与える。自分で判断しない代わりに、罪悪感も引き受けなくて済む。この構造が、体制を静かに、しかし確実に完成させる。

 現代社会では、暴力的な命令がなくても、同様の服従が生まれやすい。SNSでの同調圧力、職場や組織の空気、世論の「正しさ」。反対意見を述べることが「面倒」「危険」と感じられると、人は沈黙を選ぶ。その沈黙の積み重ねが、「みんなそうしている」という幻想を生む。

 日本社会では、露骨な強制よりも、空気による統制が力を持つ。異論を唱える者が「和を乱す」「足を引っ張る」と見なされると、多くの人は距離を置く。結果として、誰も反対していないかのような状況が作られる。ここに独裁的運用が入り込む余地が生まれる。

 ミルグラムとアーレントが突きつけた問いは、今も重い。独裁を生むのは、悪意ある少数者ではない。判断を委ね、考えることをやめ、波風を立てない選択を重ねる多数者である。独裁は、ある日突然完成するのではない。日常の中で、「考えない」「疑わない」「従う」という小さな行為が積み重なった末に、完成する。

 だからこそ、独裁への最大の抵抗は、英雄的行為ではない。立ち止まり、考え、違和感を言葉にすること。その平凡な営みを手放さないことこそが、民主主義を支える最後の防波堤なのである。