「美しい言葉」(2026年2月9~13日)

*** 今週の教養講座(美しい言葉①)
日本語には同じような意味の言葉がいくつもある。しかし、微妙に異なっていることも少なくない。「類語ニュアンス辞典」(中村明編著、三省堂書店、2020)から、「美しい」「綺麗」「粋」「快い」といった系統の言葉を選び、違いを味わってみたい。
◎美しい 形や色や音、あるいは行為や心栄えなどが、うっとりするほど美的で心地よく感じられる様子を「美しい」と呼んできた。小林一茶の俳句に「うつくしや障子の穴の天の川」とある。星空の美を鑑賞するのに、わざわざ障子の穴を持ち込むことで、一茶らしく貧乏暮しを楽しんでみせた。
武者小路実篤は「友情」で、杉子という好きな女性が自分の脇にいるという幸福感を、「自然はどうしてこう美しいのだろう。空、海、日光、水、砂、松、美しすぎる」と、天衣無縫の人間丸出しに手放しで表現した。
川端康成は「伊豆の踊子」で、「美しい空虚な気持」と書き、「頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろこぼれ、その後には何も残らないような甘い快さ」と解説する。また、「雪国」では、鏡台を眺めながら「雪のなかに女の真っ赤な頬が浮かんでいる」と自然と一体となった駒子の美しさを「なんともいえぬ清潔な美しさであった」ととらえ、葉子の澄み切った声を耳にしては、「悲しいほど美しい声であった」と感動する。
尾崎一雄は「町子への手紙」で、「あんたが美しいのでびっくりした、というと失礼のようだが、まずびっくりしたことに間違いはない」という率直な感想を書き送る。檀一雄の「花筐」(はながたみ)には、「白い花弁がぼそぼそ散りかかってそれが肩の上に融けてしまいそうな美しいよろこび」と、美を触覚的に感じた例が出現する。
太宰治は「斜陽」に、「夕日がお母様の顔に当たって」「かすかに怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほど美しかった」という表現を残し、幸田文は「流れる」で、芸者置屋の女主人を「じいっとこちらを見つめている眼が美しい」と書いている。
そして、谷川俊太郎は「東京抒情」という詩の中で、「美しいものはみな嘘に近づいてゆく」という、はっとするような一行を残した。
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*** 今週の教養講座(美しい言葉②)
◎綺麗(きれい) 「美しい」という和語とよく似た漢語である。林芙美子の「山中歌合」に出てくる「背戸には遅咲きのおいらん草が、顔を洗ったように綺麗だった」という例などは、「美しかった」と書いても何の違和感もない。
茨木のり子は「はじめての町」という詩で、町の空に「きれいな黄色の風船が漂う」のを眺め、「その町に生まれ その町に育ち けれど/遠くで死ななければ者たち」の魂だと感じる、ハッとするような展開を見せた。この辺りも「美しい」で代用がきくだろう。
もっとも、女性に「このごろまた一段とお綺麗になって」と言えば、相手が素直に喜びそうだが、「お美しくなって」と言うと、人によっては歯の浮くようなお世辞と受け取られかねない。これは意味の問題ではなく、会話的な「綺麗」に比べ、顔や姿をさす「美しい」は文章語のレベルに近いため、わざとらしく響くせいだろう。小津安二郎の「東京物語」で、「ああ、綺麗な夜明けじゃった」という笠智衆のセリフも「美しい」ではきざっぽく聞こえるかもしれない。
これらは語感の違いだが、「綺麗」は「美しい」より意味範囲が広く、清潔という意味合いでも使う。だから、「空気がきれいだ」とか「きれいに洗う」とかいう例は、「美しい」に換言できない。また、「写真がきれいに撮れている」といった「鮮明」の意や、「きれいに平らげる」「きれいに忘れてしまう」といった「すっかり」の意の例でも「美しい」は使えない。
このように「綺麗」の意味は「美しい」よりかなり広いが、逆に、「綺麗」に置き換えられない「美しい」の用法もないわけではない。「美しい行い」「美しい友情」のように、愛情に満ちて好ましく立派といった意味合いの場合がそれだ。「美しい愛の物語」の「美しい」が「綺麗な」になると、プラトニックラブの雰囲気が漂うかもしれない。
阿川弘之の「雲の墓標」に「完璧な社会でも、麗しい社会でもない」という例がある。この「麗しい」も意味としては「美しい」に近い。昔は「見目麗しく情けあり」などと使ったが、今では古風な感じで雅語的でもあるから、日常の会話にはなじまず、語感的に浮いた感じになりやすい。また、この語には「晴れやか」に近い意味用法もあり、「ご機嫌麗しく」などと使うが、これは「美しい」では代替がきかない。
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*** 今週の教養講座(美しい言葉③)
◎粋・垢抜けた 織田作之助の「夫婦善哉」に「白い料理着に高下駄という粋なかっこう」という例が出てくる。この「粋」という言葉は、人の容姿、身なり、態度、身のこなし、あるいは建物、街並みなどが、さっぱりしていて、洗練されており、すっきりとした中にも、人の情に訴える品のいい色気が感じられる様子をさす。「粋な姿」「粋な年増」「帽子の粋なかぶり方」「粋な小部屋」「粋なつくりの店」「粋な町筋」などのように使われる。
また、人情の機微に通じ、さばけているという意味にもなり、「粋な計らい」といった用法もある。いずれも、その逆の、あか抜けないのが「野暮」である。ちなみに「粋」は漢語の「意気」から転じたらしい。「粋(すい)なお方やおまへんか」などという上方の「すい」に対抗して、江戸の心意気を誇るために、同じ漢字を「意気」に通わせて使ったものだというのである。そこから出た「粋筋」という語は、典型的には花柳界をさすが、また、それとなく男女の情事を意味する用法もある。
「小粋」(こいき)といえば、「ちょっと粋な」と言う意味合いになるが、実際には粋な程度が小さいというより、どことなく垢抜けしていて、どの点か特定し難い場合に使う傾向がありそうだ。「小粋な女」「小粋な身なり」「小粋なたたずまい」などと用いる。また、女性のなまめかしく色っぽい様子をさす「婀娜っぽい」の「婀娜」(あだ)と並べて「婀娜で小粋で」と強調する使い方もみられる。
一方、威勢が良く、強きを挫き、弱きを助けそうな俠気(きょうき)が見え、しかも身のこなしが洗練されている、そんな粋な男の様子を「いなせ」と呼び、「いなせな若い衆」などと使う。江戸日本橋の魚河岸の若者がボラの幼魚であるイナセの背に似た髷(まげ)を結ったところから出たとも言い、そこから漢字で「鯔背」(いなせ)と書くこともある。
「乙な味」などと使う「乙」という語も、ちょっと洒落ていて気が利いている様子をさし、粋と共通点がある。「味のある文章」「渋いがなかなか味のある絵だ」などと使う「味」という語も、物事の味わい、趣について用いる。中谷宇吉郎は随筆「立春の卵」を「立春の卵の話は、人類の盲点の存在を示す一例と考えると、なかなか味のある話である」と結んでいる。
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*** 今週の教養講座(美しい言葉④)
◎洒落た・洗練・野暮 「枯淡の境地」などと使う「枯淡」(こたん)という語は、俗を離れ、あっさりしている中にも趣きがあり、深い味わいが感じられる様子をさす。これも「粋」とつながる。「軽妙洒脱」の「洒脱」(しゃだつ)いういくぶん古風な漢語も、飾りや気取りがなく俗を離れた趣をさし、やはり「粋」との共通点がある。福原麟太郎は「好色の戒め」という随筆で「いきであるとか、さびであるとか、洒脱、枯淡などと言っているものも、みな同じようなもの」と述べ、それをほのかな艶(つや)と呼んだ。
「洒落た作りの家」「洒落たデザイン」のように洒落た(しゃれた)という表現もある。この語も、気が利いて、洗練され垢抜けた様子を意味するから、やはり「粋」に通じる。近年、「こじゃれた」という俗っぽい言葉をしばしば耳にする。以前は「ふざけた」という意味合いで使われたとも聞くが、カフェやブティックの店や、それらの立ち並ぶ街角などを指す現在の用法は、「粋」から「小粋」が出たように、「洒落た」に「小」をつけて、「ちょっと洒落た感じの」という意味合いを表そうとしたように思われる。
これらの類語の底にあるのは、「垢抜けた」感じ、「洗練された」趣だろう。「垢抜ける」(あかぬける)は、容姿や態度や身のこなし、行為や技芸などがスマートで都会風であり、泥臭さや素人らしさが感じられない域に達することを意味する。一方の「洗練」は、動作や趣味や技芸や作品などを、高尚で優雅な感じになるまで磨き上げることをさす。ほとんど似たような意味であるが、「洗練」が磨き上げて身につけた感じが強いのに対し、「あか抜けた」は持って生まれたセンスの場合もありそうな雰囲気がある。
「粋」の対極にあるのが「やぼ」で、漢字で野暮と当てることもある。粋筋すなわち遊里の事情に通じていないこと、風雅な心に欠け、風流を解さない意味から、人情の機微にうとく、気が利かず、洗練されていない様子を広くさす。夏目漱石の「草枕」にも、「俳句は作らんでも既に俳三昧に入っているから、作るだけ野暮だ」という例が出てくる。
野暮な感じがすることを「野暮ったい」と言い、「着こなしが野暮ったい」などと使う。いかにも野暮という感じがする場合は、「野暮くさい」と言う。野暮な人を強調し、特に男女関係に鈍感な場合などに「野暮天」と呼ぶ。黒くすすけた谷保天神の像にちなむとも、仏教の吉祥天、毘沙門天、弁財天などに語呂を合わせたとも言われ、諸説あるらしい。
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*** 今週の教養講座(美しい言葉⑤)
◎快い・のどか 夏目漱石の「こころ」に「自活の方が友達の保護の下に立つより遥かに快く思われたのでしょう」という例が出てくる。この「快い」は、感覚的・心情的に気分がいい様子を表し、「快い触感」「快い睡眠」などと使われる。そのうち特に感覚的な快適さをさす「心地よい」は、「心地よい春風」「心地よい肌ざわり」「心地よい眠り」などと使われる。
「こころよい」「ここちよい」に合わせて、「気持ちがいい」を「気持ちいい」に縮めた使い方もある。「汗を流すと気持ちいい」のように使うが、極めて俗っぽく、もっぱらくだけた会話に用いられる。念願の金メダルを獲得した水泳選手がその瞬間の気持ちを、うれしいという心情よりも先に「気持ちいい」と感覚的に表現した例もある。
「猫の声」が春の風物詩であるように、「干鱈」(ひだら)や「目刺し」のような干物も春の季語らしい。のんびりとした日永の春に限って用いられる形容もある。溝口素丸(江戸時代の俳人)の「のどかさや出支度すれば女客」という句は、春の陽気に出かける用意をして、さあ出ようとすると、あいにく来客があり、すぐには出かけられなくなった。しかも、それが女の客ともなれば、こののどかな日永、しばらく話し込まれそうな気がする。そんな、いささか迷惑に思う気配が伝わってくる一句である。
この「のどか」という語は、季節に関係なく、「子ども連れの平和でのどかな風景」などと、静かで穏やかな意味で使ったり、「のどかな暮らし」のように、差し迫ったこともないのんびりした気分を表したりする。漱石が「草枕」でひばりを「のどかな春の日を泣きつくし」と書いたように、天気がよく温暖で穏やかな意味で使う場合は、春限定の形容となる。
「うららか」という語も事情はよく似ている。「うららかな声」などと、季節に関係なく、気分が晴れ晴れとしていて明るいという意味合いでも使う。これも空が晴れて明るく日が照っているという意味では、「うららかな春の一日」などと、のどか同様、春の季節に用いられる。日野草城の「うららかや猫にものいふ妻の声」という一句など、まさに春の雰囲気が伝わってくる。飼い猫に話しかける妻の声も、心なしかこの季節特有の、どこか明るくのんびりとした調子に聞こえるというのである。
