筑摩書房・国語教科書の評論文(2026年4月6~10日)

*** 今週の教養講座(高校国語教科書から①)
高校の国語教科書は、日本語の宝庫です。評判が高い筑摩書房「精選国語総合 現代文編」(2015年)から、評論文を5つ選んで紹介します。文章の中核的な部分を抜粋しているので、全文ではありません。関心のある方は原文で味わって下さい。
◎「境目」 川上弘美(1999年刊『あるようなないような』から)
境目とは、そもそも何なのだろう。
境目があるところには、区別がある。わたしたちはものを認識するために、区別ということをするにちがいない。そこには、好きも嫌いもない。ただ、区別を行うために、境目を設定する必要がある、というだけのことである。
もともと、認識のためにつくられた「境目」である。しかし、ときに境目というものがほんらいの目的から離れ、ものごとの「区別」だけでなく、「差別」や「暴力」を呼び寄せることがある。くやしく悲しいことである。悲しくくやしいが、珍しいことではない。ごくごく、ありふれたことである。世界の、どこにでも起こりうることである。自分が「差別」や「暴力」にまったく関係ない、と知らんぷりすることは、とうていできない。いつだって、自分がそのような物に寄り添ってしまう可能性は、あるのだ。
境目を引く行為は、非常に困難なものを呼び寄せる可能性を持つ行為である、ということにもなろう。
境目とはかのごとく困難を呼び寄せる可能性を持つものだから、ときに、境目をつくらないようにしようという考えも、きざす。外を見て境目をつくるまいとするうちはまだいいのだが、内を見て境目をつくるまいとすると、じきにそれは「みんな一緒がいいね。」という方向になってしまう。保護色をまとって隠れる昆虫のように、「みんなの中に隠れよう。」という気分になってくる。それは、とても楽なことであろう。ただし、楽、必ずしも楽しからず。
外国でチャイニーズと言われたとき、私は悲しかったろうか。そうではなかった。ふーん、わたしは違うんだ、と思ったのだ。それはどうやらあんまり「いい」違い方ではないらしいけど、でもまあいいか、と思ったのだ。わたしはわたしだもん。人にとって「いい」ものではなくても、わたしにとってわたしは「いい」ものなんだもん。
七歳ほどの子供の、恐れを知らぬ「だもん」だったことだろう。しかし、いまでもわたしはそのときの「わたしにとってわたしはいいものなんだもん。」という気分を、忘れない。その気分は、爽快この上ないものだった。
わたしはあなたではなく、あなたは彼ではない。夏は春ではなく、秋は冬ではない。それはなかなかに味のあることなのではないだろうか?
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*** 今週の教養講座(高校国語教科書から②)
◎「センス・オブ・ワンダー」を追いかけて 福岡伸一(『コトバ 2010年秋季号』から)
昆虫少年だったかつてのわたしにとって、センス・オブ・ワンダーは、まぎれもなくルリボシカミキリという小さなカミキリムシの青さだった。(略)自然の精妙さに目を見張ること。その美しさに打たれること。それはとりもなおさず、この世界が、私の思考を越えたところに実在していることを確認する感覚である。そして、センス・オブ・ワンダーとは、実はそういうことなのだ。
デカルトは、我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)と言ったと伝えられる。自分の存在を立証することは不可能である。しかし自分が考えるそのことだけは否定できない。だから私は存在しているのだと。
しかし、むしろ私はこう言いたい。センス・オブ・ワンダーを持ちうることが、この世界のありようをさし示すのだと。自然の細胞に宿る美しさに目をみはれることが、世界の実在性を立証している。つまり、センス・エルゴ・スムである。(中略)
ミクロな目で見ると、地球上のすべてのものは、生物にしろ無生物にしろ、物質はみな炭素、酸素、水素、窒素など、さまざまな元素から成り立っているといえる。そしてそれらの元素それぞれの総量は昔から変わらずほぼ一定である。しかし、それは絶え間なく結びつき方を変えながら、循環している。
その循環の、直接のエネルギー源は太陽だが、元素を次々と集め、あるいはつなぎかえ、それをバトンタッチするもの、つまり循環を駆動している働き手は、一体誰だろう。それは、この地球上に少なくとも数百万種あるいは一千万種近く存在すると考えられる生物たちである。彼らがあらゆる場所で、きわめて多様な方法で、絶え間なく元素を受け渡してくれているから地球環境は持続可能=サステナブルなのだ。
つまり、生物は地球環境というネットワークの結節点に位置している。結び目が多いほど、そして結ばれ方が多岐にわたるほど、ネットワークは強靭でかつ柔軟、可変的でかつ回復力を持つものとなる。すなわち地球環境という動的平衡を保持するためにこそ生物多様性が必要なのだ。(略)
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*** 今週の教養講座(高校国語教科書から③)
◎失われた両腕 清岡卓行(1966年刊『手の変幻』から)
ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、ぼくはふとふしぎな思いにとらわれたことがある。つまり、そこには、美術作品の運命という制作者のあずかり知らぬなにものかも、微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。
パロス産の大理石でできている彼女は、19世紀のはじめごろメロス島で、そこの農民により思いがけなく発掘され、フランス人に買い取られて、パリのルーヴル美術館に運ばれたと言われている。そのとき彼女は、そこの両腕を、故郷であるギリシャの海から陸のどこか、いわば生ぐさい秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。いや、もっと的確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。よりよく国境を渡っていくために、そしてまた、よりよく時代を超えていくために、このことは、ぼくに、特殊から普遍へのたくまざる跳躍であるように思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫であるようにも思われる。
ぼくはここで、逆説を弄しようとしているのではない。これは僕の実感なのだ。ミロのヴィーナスは、いうまでもなく、高雅と豊満の驚くべき合致を示しているところの、いわば美というものの一つの典型であり、その顔にしろ、その胸から腹にかけてのうねりにしろ、あるいはその背中の広がりにしろ、どこを見つめていても、ほとんど飽きさせることのない均整の魔がそこにはたたえられている。
しかも、それらに比較して、ふと気づくならば、失われた両腕はある捉えがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまり、そこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、ふしぎに心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。
それは、確かに、なかば偶然の生み出したものだろうが、なんという微妙な全体性への羽ばたきであることだろうか。その雰囲気に一度でも引きずり込まれたことがある人間は、そこに具体的な二本の腕が復活することを、ひそかに恐れるにちがいない。たとえ、それがどんなにみごとな二本の腕であるとしても。(略)
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*** 今週の教養講座(高校国語教科書から④)
◎感性の考古学――赤い花と紫の貝 見田宗介(2006年刊『社会学入門』から)
色彩にもまた近代の解放があった。柳田国男は、「明治大正史世相篇」でこのように記しています。柳田はまず、近代以前の人々の感覚を知る手がかりとして、
手向くるやむしりたがりし赤い花
という一茶の句を記しています。この一句は、現代人であるぼくたちには、理解のできないものとなっています。言葉としてはむつかしい言葉はひとつもない。「手向くる(たむくる)」は最近あまり使いませんが、仏さまに「供える」ということです。あとは「むしりたがった」「赤い花」ということで、簡単明瞭です。
しかしこの句は、何を言おうとしているのだろうか。この句は一茶がとてもかわいがっていた、幼い女の子が病気で死んでしまったときに、悲しみを抑えてよんだものです。それが分かってもぼくたちにはそれほど「意味」が伝わらない。世界のあり方、存在するものに対する感覚が、現代とは全く異なっている世界を前提としているからです。
ハナという日本語には、花・華/鼻・岬/初・端など、たくさんの意味があります(初・端は「しょっぱな」「ハナ初めから」等々の語に使います)。華は花の抽象化、岬は鼻のように出っ張ったところ、ということで、それぞれ同じ語であることはすぐわかりますが、/で区切った三つの系列(花と鼻と初)は、現代人には全然別の、たがいに無関係なコンセプトのように見えます。偶然の同音異義語に過ぎないと。
けれどもほんとうは、これらはみな同じ原義で、古代の日本語のハナ(正確にはFanaと発音しました)という、ものごとの「気の集中する先端」みたいな部分や現象を指し示す言葉の用法たちです。「初」がなぜそうであるかというと、原始の時代の人々の時間や空間、世界についての感じられ方を前提として初めて理解できます。(略)
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*** 今週の教養講座(高校国語教科書から⑤)
◎マルジャーナの知恵 岩井克人(2000年刊『二十一世紀の資本主義論』)
情報の商品化――それは、差異の商品化と言いかえることができる。すなわち差異そのものを売ることによって利潤を得る――それが現代の資本主義の中心原理として機能しているのである。
資本主義とは、資本の無限の増殖を目的としている経済機構にほかならない。資本の増殖のためには利潤が必要である。そして、利潤とはつねに差異から生まれる。なぜならば、安く買って高く売ることこそ利潤を生み出す唯一の方法であり、それは、詐欺や強奪といった手段に訴えない限り、二つの異なった価値体系の間の差異を媒介することによってしか可能ではないからである。
差異から利潤を創りだす――これが、基本資本主義の基本原理である。だが同時に、この原理は、いままでの資本主義においては、あるいは外部的な関係として、あるいは隠された構造としてしか作用してこなかった。たとえば、資本主義のもっとも古い形態である商業資本主義とは、海を隔てた遠隔地との交易を媒介して、国内市場の価格との差異から利潤を生み出してきた。また、産業革命以降の資本主義の支配的な形態であった産業資本主義は、いまだ資本主義化していない農村における過剰人口の存在によって構造的に創り出された、労働力の価値(実質賃金率)と労働の生産物の価値(労働生産性)とのあいだの差異から利潤を生みだしてきた。
だが、遠隔地も農村の過剰人口も失いつつある現代の資本主義は、もはや商業資本主義的な差異からも産業資本主義的な差異からも利潤を生み出すことが困難になってしまっている。資本主義が資本主義であり続けるためには、いまやその差異そのものを意識的に創りだしていかなければならないのである。そして、それが、情報の商品化を機軸として、われわれの目の前で進行しつつある高度情報社会、脱工業化社会、あるいはポスト産業資本主義と呼ばれる事態にほかならない。
情報の商品化――それは、まさに差異が利潤を創りだすという資本主義の基本原理そのものを体現している現象である。いわばそれは、もはやだれも聞き逃しようのない、資本主義の秘密に関する「開け、胡麻」であるのである。
