西郷隆盛が選んだ佐藤一斎著「言志四録」(2025年5月26~30日)

*** 今週の教養講座(言志四録①)
「言志四録」(げんししろく)という江戸時代の本がある。美濃国岩村藩出身の儒学者・佐藤一斎の書として著名で、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録(てつろく)」の四書から成る。西郷隆盛は大きな影響を受け、全1133条のうち、心に残った101条を選んで繰り返し読んだ。今週は「超訳『言志四録』西郷隆盛を支えた101の言葉」(2017、すばる舎)から紹介する。
【成功する人のマインド】何かを成し遂げたいと思うなら、「天」に仕える心を持つことが大切である。人に自慢したいなどと考えてはならない。◎原文=凡そ事を作すには、須らく天に事うるの心有るを要すべし。人に示すの念有るを要せず(言志録第3条)
「南洲翁遺訓」という書物があります、西郷さんがこの世を去った後の明治23年(1890)、彼に恩義のあった旧庄内藩の藩士たちが、旧恩に報いるべく刊行した、西郷さんのいわば「名言集」です。この中にも「人を相手にしないで、天を相手にするようにせよ。天を相手にして自分の誠を尽くし、人の非を咎めるようなことをせず、自分の真心の足らないことを反省せよ」との言葉があります。これは佐藤一斎先生の影響を強く受けて発せられたものでしょう。
では一斎先生の言う「天」とは何でしょうか。素直に解釈すれば、「神や仏」、ひいては「大自然」と読むことができます。しかし、一斎先生は「心はすなわち天である。身体がつくられて天が肉体に宿るのである」と述べています。人の心はそのまま「天」であるというのです。つまり、他人の評価などの雑音に惑わされるのではなく、自分の心に宿っている、自然な、正直な心と向き合ってこそ、人は成長し何かを成し遂げられるということです。
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*** 今週の教養講座(言志四録②)
【偉人に憧れてはいけない】
自分を高めるために必要なのは、発憤の「憤」の一字に尽きる。孔子の弟子顔淵が「あの舜王も私も、同じ人間ではないか」と言ったのも、まさに「憤」である。◎原文=憤の一字は、これ進学の機関なり。舜何人ぞや、予、何人ぞやとは、まさにこれ憤なる。(言志録第5条)
繰り返されている「憤」の説明の前に人物紹介をさせてください。まず孔子は「世界三大賢人」にも数えられる儒教の祖で、顔淵はその弟子です。舜王は、古代中国の伝説に登場する皇帝で、自分を殺そうとした父親にも孝行を尽くしたことで、堯(ぎょう)という君主に認められ、その位を譲られます。君主として平和な黄金時代を築いたことから、聖人として儒学者から崇拝されているのです。
その舜王について顔淵は、「あの瞬王も私も、同じ人間ではないか。ひたすら努力して肩をならべて見せる」と言い放ったのです。私たちは、しばしば偉大な人を指して「才能がある人はいいなあ」「あの人は特別だから」とうそぶき、目をそむけてしまいます。しかし、何かを成し遂げられる人というのは、「よし、俺もあの人と肩を並べるくらい、すごい人物になってやろう!」と「発憤」し、その意気込みで最後まで突っ走ります。
この意気込み、つまり「憤」こそ、目標を達成するためのエネルギーになると、佐藤一斎先生は言っているのです。ちなみに、孔子の弟子の顔淵は学問に励み、師匠から「顔淵ほど学問を好むものは聞いたことがない」とまで評され、後継者と目されるまでになりました。
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*** 今週の教養講座(言志四録③)
【決断に迷わないために】 高いところから物事を見れば、道理が見えてきて、迷うことなく決断できる。◎原文=着眼高ければ、即ち理をみて岐せず(言志録第88条)
メディアで報道される有名人の不祥事や、政治家の不正についてのニュースを見ていて、「どうしてもっと冷静になれなかったのだろう?自分なら絶対にこんなことはしないのに・・・」と感じたことはないでしょうか。それこそまさに佐藤一斎先生が言いたいことです。
人間というものは、事件や騒動のただ中にいると、どうしても目の前の懸案の処理に追われ、視野が狭くなり、冷静な判断ができなくなるものなのです。しかし、こんな時こそ一歩引いて「高いところから物事を見る」、つまり状況を客観視することによって、道理が見えてくるというわけです。
さらに深掘りすると、「志を大きく持て」という意味にも読めます。自分の利益だけを追い求めるのではなく、世のため、人のために、という大きな志を持って生活していれば、物事の本質が見えてきて、いざ決断が必要となった時に、ささいな邪念に惑わされることがなくなるということです。
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*** 今週の教養講座(言志四録④)
【人にはなぜ教育が必要か】
すべての人間はもともと善人だが、気質がそれぞれ違う。気質が異なることが、教育が必要な理由である。そして、もともと善人だからこそ、教育の効果があるのだ。◎原文=本性は同じゅうして質は異なり。質の異なるは教の由って設くる所なり。性の同じきは、教の由って立つ所なり(言志録第99条)
佐藤一斎先生は「すべての人間はもともと善人」と言い切っていますが、これは儒教の根本にある「人間の本性は善である」という考え方、いわゆる「性善説」にもとづいています。しかし、もともとは善人だとしても、人間は生きていると、様々な体験をします。騙されたり、裏切られたりして、傷ついてしまうこともあるでしょう。それによって、本性である善の心が曇ってしまう人も出てきます。気質の違いが生じるというわけです。そして心が曇った人は再び善の心へ、本性を失っていない人はさらなる高みへと導くのが教育というものだと言っているのです。
さてここからは西郷さんの生涯も見ていきましょう。西郷さんは薩摩藩の勘定方小頭を務める吉兵衛と、その妻マサの間に長男として生を受けました。四男三女と兄弟が多く、生活は楽ではありませんでしたが、西郷さんが人間の本性を失わずに成長できたのは、薩摩藩にあった「郷中教育」のおかげでしょう。これは地域ごとに6歳から15歳までの少年が集まり、それを15歳以上の先輩が指導する教育システムです。郷中教育はとりわけ「詮議」(評議)を重視していました。
計算式のように簡単に答えが出る問題ではなく、「船が難破し、助けの船が来たが、そこには親の仇が乗っていた。さあどうする」といった哲学的な問いについて、みんなでディスカッションしていたといいます。西郷さんはこうした教育によって、どんな事態にも対処できる胆力を身につけていったのです。
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*** 今週の教養講座(言志四録⑤)
【決して失くしてはいけないもの】
自信をなくしてしまうと、周りから人が去っていく。人が去れば、やがて何もかも失うことになる。◎原文=己を喪えば斯に人を喪う。人を喪えば斯に物を喪う(言志録第120条)
自信を失くすことは「自分を見失う」とも言い換えられるでしょう。何かの原因で自分を見失ってしまうと、その様子に失望した人たちが離れていき、やがて仕事もうまくいかなくなってすべてを失ってしまうと佐藤一斎先生はいっています。では、そうならないためには、どうすればよいのでしょうか。
儒学の大家である荀子は著書の中でこう説きます。「学問は栄達や出世のためにあるのではない。行き詰った時も苦しまず、心配事があっても意気が衰えることなく、幸福な時も傲慢にならず、始めがあれば終わりのあることを知って、どんなときでも静かな心で対処できるようになるためにある」と。
息詰まった時のために、あらかじめ準備をしておくべきだということです。ここでいう「学問」とは、学校で勉強するという意味ではなく、人間の本質を考え、学ぶ時間を持つことを指していると筆者は考えます。そのための一番の近道は、ありきたりですが、様々な経験を積むことでしょう。経験を通じて自分の心の動きを自覚することによって、揺るぎない自分が見えてくるのではないでしょうか。