小林秀雄の「美を求める心」(2025年6月16~20日)

*** 今週の教養講座(小林秀雄の美を求める心①)
今週は評論家の小林秀雄(1902~83)を味わう。「真贋」(世界文化社、2000)から、「美を求める心」(1957)を紹介する。字数の都合で、一部短縮している。
近頃は展覧会や音楽会が盛んに開かれて、絵を見たり、音楽を聴いたりする人の数も増えてきた。若い人たちから、絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。近頃の絵や音楽は難しくてよくわからぬ、ああいうものがわかるようになるには、どういう勉強したらいいか、どういう本を読んだらいいかという質問が大変多い。私は美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも何も考えずに、たくさん見たり、聞いたりすることが第一だといつも答えています。
絵や音楽を解ると解らないがもう間違っている。絵は眼で見て楽しむものだ。音楽は耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。何をおいても見ること、聴くことです。わかりきった話だと読者はいうでしょう。ちっともわかりきった話ではない。おそらく、よくよく考えてみたことはないだろうと言いたいのです。
昔の絵は見ればよく解るが、近頃の絵は、例えば、ピカソの絵を見ても何がなにやらさっぱり解らないと、言いたいでしょう。昔風の絵を見て解るのは、そういう絵を見慣れているということでしょう。ピカソの絵は見慣れない形をしているからでしょう。だから、眼を慣らすことが第一です。頭を働かすより、眼を働かすことが大事です。
見るとか聞くとかを簡単に考えてはいけない。健康な目や耳を持ってさえいれば、誰にでもできるやさしいことだ。頭で考えることは難しいかもしれないし、考えるのには努力がいるが、見たり聞いたりすることに何の努力がいるか。そんなふうに考えがちですが、それは間違いです。見ることも聞くことも、考えることと同じように、難しい努力を要する仕事です。
川上選手は打撃の調子のいい時は、球が目の前で止まって見えると語ったそうだ。そんな風に球が見えてくるためには、目を働かせる努力と練習がどれほど必要だったかを考えてみるべきです。画家でも音楽家でも同じで、努力の結果、普通の人には信じられないほどの色の微妙な調子を見分け、音を聞き分けているに違いないのです。
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*** 今週の教養講座(小林秀雄の美を求める心②)
私たちが生活の中で、どんな具合に目を働かせているかを考えてみるとよい。ただ物を見るために物を見る。そういう風に眼を働かすことが、どんなに少ないかすぐ気がつくでしょう。時計を見るのは時間を知るためだから、針しか見ない。りんごは食べ物だが、どんなに美しい色合いをしているかつくづく眺めたことのある人は少ない。
ロンドンのダンヒルの店で、古風ないかにも美しい形をしたライターを見つけて買ってきた。書斎の机の上に置いてあるから、今までたくさんの来客がタバコの火をつけたが、火をつけるついでに「これは美しいライターだ」と言ってくれた人は1人もいない。黙って1分間も眺めた人はいない。試みに黙ってライターの形を1分間眺めてみるといい。1分間にどれほどたくさんのものが目に見えてくるかに驚くでしょう。1分間がどれほど長いものかに驚くでしょう。見ることはしゃべることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。
例えば、野原を歩いて1輪の美しい花が咲いているのを見たとする。すみれの花だとわかる。なんだ、すみれの花かと思った瞬間、もう花の形も色も見るのをやめるでしょう。すみれの花という言葉が諸君の心の内に入ってくれば、もう眼を閉じるのです。言葉の邪魔の入らぬ花の美しい感じをそのまま持ち続け、花を黙って見続けていれば、花はかつて見た事もなかったような美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は皆、そういう風に花を見ているのです。花の絵は、画家が花を見たような見方で見なければなんにもならない。諸君は物の名前が知りたくて見るのです。すみれの花だとわかれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見ることではありません。画家が花を見るのは、好奇心からではない。花への愛情です。
美しい自然を眺め、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い表せないと思った経験は誰にもあるでしょう。何とも言えず美しいというでしょう。この何とも言えないものこそ、絵かきが直接に諸君の心に伝えたいと願っているのだ。美しいものは黙らせます。美には人を沈黙させる能力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。
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*** 今週の教養講座(小林秀雄の美を求める心③)
音楽についてたくさんの知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽がわかった人とは限りません。解るという言葉にも、いろいろな意味がある。人間は種々な解り方をするものだからです。絵や音楽が解るというのは、絵や音楽を感ずることです。愛することです。知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子どもでも、何でもすぐ頭で解りたがる大人より、美しいものに関する経験はよほど深いかもしれません。すぐれた芸術家は、大人になっても子どもの心を失っていないものです。
諸君は言うかもしれない。絵や音楽の表わす美しさは、言うに言われぬものかもしれない。これを味わうには、言葉は邪魔かもしれない。しかしそれなら、詩はどうなのか、詩は言葉でできているではないか、と。だが詩人とっても同じことなのです。なるほど主人は言葉で詩を作る、しかし、言うに言われぬものを、どうしたら言葉によって表すことができるかと、工夫に工夫を重ね、成功した人を詩人と言うのです。
田子の浦ゆ打ち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
これは山部赤人の有名な歌で、誰でも知っている。「ゆ」は、現代の言葉で「から」という意味です。諸君がこの歌を読んで美しいと思うなら、諸君に美しいと思わせるものは、この歌の文字通りの意味ではないでしょうか。やはり、富士を見た時の赤人の感動が、諸君の心を打つからではありませんか。詩人の使う言葉も、諸君が日常使っている言葉も、同じ言葉だ。言葉というのは勝手に一人で発明できるものではない。歌人でも、皆が使って、よく知っている言葉を取り上げるよりほかはない。
ただ歌人は、日常の言葉を綿密に選択し、さまざまに組み合わせて、はっきりした歌の姿を作り上げるのです。日常の言葉は、この姿、形の中で、日常まるで持たなかった力を得てくるのです。赤人の歌が、どんなに楽々と自然に、まるで赤人の感動がそのまま言葉となっているように思われようとも、実は大変な苦労が払われているのです。苦心など表に現れぬところが大歌人の苦労です。
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*** 今週の教養講座(小林秀雄の美を求める心④)
日常生活でどんな風に言葉を使っているかを反省してみてください。「タバコをください」と誰かに言って、タバコが手に入ったら言葉はもう用はない。タバコをくださいという言葉が相手に通じたら、もうその言葉に用はないでしょう。相手も言われた言葉が理解できたら、もうその言葉に用はないでしょう。日常生活では言葉が用事を足りたら、消えてなくなるふうに使われている。言葉は人間の行動と理解とのための道具なのです。
歌や詩は、何かしろと命じますか。歌に接して何をするのでもない。何を理解するのでもない。その美しさを感ずるだけです。何のために感じるのか。ただ美しいと感じるのです。歌や詩は、わかってしまえば、それでおしまいというものではないでしょう。では、歌や詩は、わからぬものなのか。そうですわからぬものなのです。このことをよく考えてみてください。赤人の歌をほかの言葉に直して歌に置き換えてみることができますか。それは駄目です。そういう意味では、歌はまさにわからぬものなのです。
歌は意味の分かる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には意味もあるが、姿、形というものもあるということをよく心に留めてください。言葉の姿といっても、目に見える一時の格好ではない。心に直に映ずる姿です。この歌の姿ということは、古くから日本の歌人が、歌には一番大切なものと考えてきたものです。西洋では詩のフォームと言い、今は形式と訳されて使われておりますが、日本に古くからある姿と訳す方がよほどいいわけなのです。
それはともかく、姿のいい人があるように、姿のいい歌がある。歌人の歌の言葉は、真っ白な雪の降った富士山のような美しい姿をしているのです。だから赤人は、富士を見た時の感動を言葉に現した、あるいは言葉にしたと、いうよりもそういう感動に、言葉によって姿を与えたと言った方がよいのです。感動というものは、読んで字のごとく、感情が動いている状態です。動いているが、やがて静まり消えてしまうものなのです。そういう強いが、不安定な感動を、言葉を使って整えて、安定した動かぬ姿にしたと言った方がいいのです。
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*** 今週の教養講座(小林秀雄の美を求める心⑤)
私たちの感動というものは、自ら外に現れたり叫びとなって現れたりします。感動は消えてしまうものです。例えば、悲しければ泣くでしょう。でも、あんまりおかしい時でも涙が出るでしょう。涙は歌ではないし、泣いていて歌はできない。悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみをよく見定める人です。悲しいと言って、ただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、はっきりと感じ、言葉の姿に整えて見せる人です。
「美を求める心」という大きな課題に対して、私は小さな事ばかりお話ししているようですが、美とは何かという面倒な議論の問題ではなく、私たちの小さなはっきりした美しさの経験が根本だと考えています。美しいと思うことは、ものの美しい姿を感じることです。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は心が感じます。姿とはそういう意味合いの言葉です。あの人は姿のいい人だとか、様子のいい人だとかいいますが、それはその人の姿勢が正しいとか格好の良い体つきをしているという意味ではないでしょう。その人の優しい心や人柄も含めて姿が良いと言うのでしょう。
そういう姿を感じる能力は誰にでも備わり、姿を求める心は誰にでもあるのです。ただこの能力は私たちにとってどんなに貴重な能力であるか、この能力は養い育てようとしなければ衰弱してしまうことを知っている人は、少ないのです。今日のように知識や学問が普及し尊重されるようになると、人はものを感ずる能力を、知らず知らずのうちに疎かにするようになるのです。一輪の花の美しさを、よくよく感ずるということは、難しいことだ。人間の美しさ、立派さを感じることは、やさしい事ではありますまい。
知識がどんなにあっても、優しい感情を持つとは、物事をよく感じる心を持っている人ではありませんか。神経質で物事にすぐ感じても、イライラしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多い。美しいものの姿を正しく感じる心を持った人ではない。ただビクビクしているだけなのです。感じるということも、学ばなければならないものなのです。立派な芸術というものは、正しく、豊かに感じることを、人々にいつも教えているものなのです