知的活動に関わる「教養としての上級語彙」(2025年12月22~26日)

*** 今週の教養講座(教養としての上級語彙①)

今週は「教養としての上級語彙」(宮崎哲弥著、新潮選書、2022)から「知的活動に関わる上級語彙」を紹介する。語彙には「理解できる」と「使える」の2つのレベルがあるが、使うためには理解するよりはるかに高い言語処理能力が必要になる。語彙の深い世界に触れてみたい。わかりやすくするため、表記は書籍と一部異なっている。

●「畢竟」(ひっきょう)=つまるところ。結局のところ。所詮。例示「畢竟、生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」「畢竟するに、死は生の必然的結果だ」。

●「一時の昂奮(こうふん)から要路の大官を狙ったりなどするのは、畢竟大鵬の志を知らざる燕雀の行いである」(大隈重信「青年の天下」)/「要路」は、重要な地位や職務。「大官」は偉い官僚、高官。「大鵬」は大きな鳥で、転じて大人物をさす。「大鵬の志」とは、大人物が抱く大きな志。対して「燕雀」(えんじゃく)は、ツバメやスズメみたいな小さな鳥。小人物の「隠喩」(いんゆ)だ。

●「燕雀いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」=ツバメやスズメのごとき小物がどうして大いなる鳥のような大人物が抱く志を知ることができようか。いやできない。「鴻鵠」は「大鵬」と同じ意味。

●「安んぞ、焉んぞ」(いずくんぞ)=どうして。何として。いかにして。文末に推量の助動詞などで受けて、反語、つまり「どうして~~だろうか。いや、ない」という文意を表す。

●「鶏群の一鶴」(けいぐんのいっかく)=ニワトリの群れの中に1羽の鶴がいるように、多数の凡人の中に優れた人物が1人いること。「はきだめにツル」「鶏群の孤鶴(こかく)」ともいう。大鵬も燕雀も鴻鵠も、隠喩である。隠喩の意味を対義語の「直喩」とともに押さえていこう。

●「直喩」(ちょくゆ)=「ような」「みたいな」「ごとく」「さながら」などを用いて、たとえられるものとたとえるものの関係を直接示すもの。明喩。「雪のような肌」という直喩表現で言えば、肌がたとえられるもの、雪がたとえるものである。

●「隠喩」(いんゆ)=あるものを、「ような」などを用いずに、別のものでたとえること。メタファー、暗喩。直喩の「雪のような肌」に対し、「雪の肌」と表現する。例は「彼女は掃きだめのツルだ」「あの人は生き字引だよ」。雪の肌は「雪肌」(せっき)という熟語にもなっている。

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*** 今週の教養講座(教養としての上級語彙②)

●「筆路」(ひつろ)=文章の筋道、文の脈略。文脈。例示「筆路を辿っていった」「本稿の筆路に沿って確認する」/「ここで少し筆路が脱線するが、私にこうした考えを抱かせた支那の文献について、一瞥を投じてみたいと思うのである」(中山太郎「獅子舞雑考」)。

●「世路」(せろ、せいろ)=世渡りの方途。渡ってゆくその世の中。渡る世間/「多少、世路の複雑を舐め歩いたぼくには、母の信じ方が、危ぶまれてならなかった」(吉川英治「忘れ残りの記―四半自叙伝」)。

●「理路」(りろ)=思考や議論の筋道。物事の道理。論理過程。例示「ここから先の行論はやや錯綜していて、理路の透明度が落ちる」「彼の議論は間然するところがないと言えるほど、理路整然たるものがあった」。

●「立論」(りつろん)=主張を組織された論として立てること。論旨、理路を組み立て、秩序立った議論として提示すること。またはその議論。例示「先行研究を踏まえた上で、自説を立論した」「自らの立論を補強した」「彼の立論を再検討してみよう」。

●「行論」(こうろん)=論を立てること。立論。議論の進め方。あるいは、その議論。「行論上、言及しなければならなかった」「以下の行論において明らかにしていく」/「もし完全に実証的な行論というならば、その行論において一点たりとも実証を欠いてはならぬ」(加地伸行「中国哲学史研究ノート」)。

●「錯綜」(さくそう)=事態が複雑に入り組んでいること。物事や情報が入り混じり、混乱していること/「現実の周囲で錯綜する男女の間のいきさつにたいして、素子はいつも一種辛辣な幻想のない態度を持っていた」(宮本百合子「二つの庭」)。

●「間然」(かんぜん)=批判すべき欠点のある様。難ずるべき隙(すき)や穴があるさま。ほとんどの場合、「間然するところがない=非難すべき欠点は何もない」の成句で使われる。

●「理路整然」(りろせいぜん)=思考や議論、文や話の筋道がきちんと通っているさま。論理の展開が整い、秩序だっているさま。

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*** 今週の教養講座(教養としての上級語彙③)

●「肯綮に中る」(こうけいにあたる)=意見や批判が物事の核心を突くこと/「することはいつも肯綮にあたっていて、間然すべきところがない」(森鴎外「阿部一族」)。「肯綮」は急所、要のところの意味。「中る」は「当たる」とも書く/「無学な人が創り出した渾名(あだな)でも、渾名というものは大概肯綮に当たっており、人を頷かせる所があるものだ」(坂口安吾「古都」)。

●「正鵠」(せいこく)=原意は弓の的の中心。物事の急所。要点。「正鵠を得る」「正鵠を射る」「正鵠を失う」「正鵠を誤る」。正鵠は「得る」のか「射る」のか。原意を考えれば「射る」が正しいように思えるが、ずっと「正鵠を得る」が本来の用法とされてきた。いろいろ議論があったが、どちらでもいいと思われる。

●「半畳を入れる」(はんじょうをいれる)=他者の言動に文句をいうこと。他人を言い腐す言葉を投げつけること。半畳を打つ。芝居小屋などで観客が役者に対する不満や反感を表すため、敷いている半畳(小さな畳の敷き物)を舞台に向かって投げたことから来た成句/「他においしいものがなかったから、こんなものでも珍重するに至ったのであろう。と、私が半畳を入れるのに対して、博士はあるいはそうかも知れん、と、あっさり答えて、盃を干すのであった」(佐藤垢石「ザザ虫の佃煮」)。

●言い腐す=ケチをつける。欠点、短所などをあげつらう。例示「彼女の作品をあれこれ言い腐した」。

●論う(あげつらう)=とやかく論じ立てる。些細な瑕疵(欠点)などを取り上げて盛んに言い立てる/「新聞の相場欄を理解する知識を持ち、時の政治家の人物をあげつらうのであった」(島木健作「一過程」)。

●「論を俟たない」(ろんをまたない)=議論するまでもなく自明である。当然である。「俟つ」は「待つ」と同義とされることが多く、辞書でも合わせて見出し語になっていることもある。「俟つ」の用例は、「あてにする」「頼りにする」「期待する」の語意で使われている。「思い半ばに過ぐ」=すべてを見聞きしなくとも、およそ見当がつくさま。「思い半ばに過ぎる」は口語形。

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*** 今週の教養講座(教養としての上級語彙④)

●「述べ来たった」(のべきたった)=ここまで述べてきた。これまで話してきた。例文「述べ来たったことを要約すれば」「縷縷述べ来たったように、本質的な原因の解明はこれからなのだ」/「上来述べ来たったように、あらゆる一切の芸術は、主観派と客観派との二派に分かれ、表現の決定的な区分をしている」(萩原朔太郎「詩の原理」)。

●「上来(じょうらい)」=いままで述べたこと。以上にあげたこと。例文「上来の検討を総合すると」「上来の説明でも明らかなように」。

●「来たった」=ここまで~~してきた。「来った」は「来る」が基本形で、意味は「~~し続けて現在にいたる」。この連用形促音便形(「っ」とつまる音便形)に完了の助動詞「た」がついた。

●「論じ来たった」=ここまで論じてきた。例文「以上論じ来たったところを約言する」/「上来論じ来たったように、意志と知識との間には絶対的区別のあるのではなく、そのいわゆる区別とは多く外より与えられた独断に過ぎないのである」(西田幾多郎「善の研究」)。

●「約言」(やくげん)=要約して言うこと。つづめて要点を言うこと/「この表現は描写ではない。それは感情の意味を表象するのであるから、約言して言えば情象である」(萩原朔太郎「詩の原理」)。

●「摘記」(てっき)=要点を抜き出して記すこと。肝心の箇所を要約して書き出すこと。その記録。例文「議論の論所を摘記する」。

●「論所」(ろんしょ、ろんじょ)=論じ合っている点。議論すべきところ。論点、争点。

●「取意」(しゅい)=他人の書いたテクストを、その意図するところを変えずに約言したり、自分の表現に直したり、手を加えて引用すること。原文の意図するところを忠実にくみ取った上でまとめること。文末に「取意」という言葉を添えて、そのままの引用ではなく、引用者がまとめたものであることを示すことがある。

●「後述」(こうじゅつ)=後で述べること。

●「後論」=後で論じること。例文「詳細は後論するが」「後論するように」「後論の通り」。

●関説(かんせつ)=何かについて説くこと。何かに関連して説くこと。例文「幅広い読書のために有益な知識と考え、特に関説した」。

●進境(しんきょう)=進歩して達した境地。上達した境地。学芸、武術などの上達の度合い。「これは筆者の人格的性格における近来の進境を物語るものにほかならぬ」(和辻哲郎「青丘雑記を読む」)。

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*** 今週の教養講座(教養としての上級語彙⑤)

●「僻論」(へきろん)=偏っていて、筋の通らない議論。僻説ともいう/「断片的な通俗科学的読み物は排斥すべきものだと新聞紙上で論じた人があったようであるが、少し偏頗な僻論であると私には思われた」(寺田寅彦「自由画稿」)。

●「偏頗」(へんぱ)=片寄っていること。不公平なこと。例文「偏頗な考え」「偏頗な状況が続いている」。

●曲論(きょくろん)=間違っていることを正しいかのように言い曲げる。「極論」と読みが同じなので注意。こちらは極端な議論。

●「頑論」(がんろん)=かたくなな議論。他の見方を認めようとしない頑固な考え。

●「徒論」(とろん)=まったく得るところのない無益な論。無駄な、実りなき議論。例文「テレビの討論番組は、徒論の投げ合いだ」。

●迂論(うろん)=まわりくどい議論。すぐには役に立たない迂遠な議論。「かかる論は足の先が壊疽かかって腐り始めたときに細胞権を云々して患部を切断することを躊躇するのと同様な迂論である」(丘浅次郎「人類の将来」)。

●「贅論」(ぜいろん)=無用の議論をすること。無益の論説。贅説。例文「贅論で紙幅を費やした」。贅論の「贅」は贅肉の「贅」だが、一方で「贅沢」「贅を尽くす」の「贅」でもある。字義は「役に立たない」「余分な」「必要以上」だ。

●「贅言」(ぜいげん)=口にする必要のない言葉を言うこと。その言葉。無駄な言葉/「まずこの点に誤解のないように、わざわざ贅言を費やす必要を感じる」(寺田寅彦「ルクレチウスと科学」)。

●贅言を要しない=当たり前のことだから、わざわざ無駄な言葉を言うまでもない。

●贅する=必要のこと以上を書き残す。余計なことを言う/「この曲についてはここに贅するまでもなく、常識的に周知のことである」(野村あらえびす「名曲決定版」)。

●推考(すいこう)=物事の道理や事情を推しはかって考えること。推敲(すいこう)=文や詩を書く際、その字句や言葉の使い方を練ったり、練り直したりすることと混同しないように。

●容喙(ようかい)=もとの意味は、くちばし(喙)を入れる。当事者ではない者が横から口を出すこと。分を越えて口出しする。

●適言(てきげん)=その場や状況によく当てはまる言葉。