2026年8月3~7日(教養講座:東条英機伝)

~~~ 長谷川塾メルマガ 2026年8月3日号(転送禁止)~~~

◎来週はお盆のため休みます。再開は8月17日号からです。

***デイ・ウォッチ(31~2日/コメントも参考にしながら自分の考えをまとめましょう

熊本地震 車中泊で死亡 熱中症疑い 3日 熊本 酷暑日予想で注意 | NHKニュース  →酷暑の大規模災害は日本初といってよく、恐れていた事態になった。70代で車中泊をしていた女性が死亡した。今後も出そうで、行政や周りの人たちのきめ細かな対応が必要になる。盛夏の熊本地震は災害大国に大きな教訓を残すだろう。

消費税減税 自民党内に慎重意見も根強く 週明けも議論継続へ | NHKニュース  →高市首相の消費減税方針に対して、自民党内で異論が噴出した。これまで沈黙が目立ったが、かつての甲論乙駁が復活した。市場の反応などを懸念する財政論と、公約を重視する政治論が対立している。執行部は首相の方針通り閣議決定する見通しだが、高市一強の雰囲気が変わりつつある。

米財務省が31日に円買い介入と報道 協調介入であれば異例 | NHKニュース  →今回の円買い介入は、米国との協調介入だった。2011年以来とみられる。ウォール街出身のベッセント財務長官は過度な円安を警戒しており、円買いを示す手元メモをメディアに撮影させた。日本への援護射撃だが、念頭にあるのは米国債売りを防ぐ米国の利益。日本の利上げも促す見通しだ。きょう共同声明を発表する。投機筋へのサプライズはあるか → 3日に日米共同の声明発表へ | NHKニュース

FIFAが子会社設立計画を撤回 UEFAなどの反発受け | NHKニュース  →最近は国や団体で「独裁者」がはびこっている。FIFAが放映権など商業活動と大会運営を委ねる子会社計画を発表。欧州サッカー連盟などが猛反発し、撤回に追い込まれた。構想も手続きも不十分だった。リーダーシップとは独裁ではなく、賢明な構想とていねいな合意だ。

夏の甲子園 組み合わせ抽選会 沖縄尚学は横浜高校と初戦  | NHKニュース  →5日から始まる夏の甲子園大会の組み合わせが決まった。初戦の好カードは、横浜と沖縄尚学。昨年春夏の優勝校で、ともに好投手を擁する。昼前後の試合を避ける日程になっており、テレビ観戦にも工夫がいる。

*** 「今日の名言」(気に入った言葉を探してみましょう)

◎赤塚不二夫(漫画家。2008年8月2日死去、72歳)

「自分が最低だと思っていればいいのよ。そしたらね、みんなの言っていることがちゃんと頭に入ってくる」 「自分が偉いと思っていると、他人は何も言ってくれない。てめぇが一番バカになればいいの」 「バカだからこそ真実を語れるんじゃないか」 「『天才バカボン』を描き出した時にまず思った。バカに真実を語らせようと。そこからバカボンが生まれ、バカボンのパパが生まれたんだ」 「利口よりバカが英雄なのだ」 「バカボンのパパってさ、別にラクして生きてるわけじゃないんだよ。どうすれば家族を幸せにできるかを考えながら、一生懸命ガンバってるわけ」 「頭のいい奴は、わかりやすく話す。頭の悪い奴ほど、むずかしく話すんだよ」 「ウケるためなら、死んでもいい」 「最後につじつまがあってりゃ、何やってもいいんだよ」 「トキワ荘で俺だけ彼女がいたんだよ。ハンサムだったから」 「世の中に友情と欲情ほど良いものはない」

*** 今週の教養講座(東条英機伝①)

日本列島は6日の広島原爆忌を皮切りに慰霊の夏を迎える。第二次世界大戦をめぐる歴史は、日本人の基本的教養といえる。今回は開戦時に首相だった東条英機の足跡をたどり、考えてみたい。古川隆久・日大教授が書いた「日本史リブレット人100 東条英機」(山川出版社)を参考文献とした。なぜ彼が首相になったのか、どんな人物で、どんなことをやったのか。詳しく見ていきたい。

◎幼少時代から陸軍大臣  

東條英機は1884(明治17)年12月30日、陸軍中尉の三男として東京に生まれた。父は、陸軍の大御所・山県有朋と相性が悪く、不遇感を抱いて退役し、軍事評論家となった。東条は学習院初等科を経て、東京府立第四中学(現・都立戸山高校)に進み、陸軍東京幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校という陸軍の学校で学んだ。完全な陸軍ファミリーである。

陸軍の学校では、軍人勅諭とエリート意識を徹底的に教え込まれた。軍人勅諭は、自由民権運動を強く警戒する山県が主導した。天皇を軍に対して直接統治する大元帥と位置付け、国家の重要性を強調している。東条は幼年学校時代には下位の成績だったが、徹底した教科書の暗記で力をつけ、陸軍大学校では56人中11位の上位で卒業した。

東条は陸軍に入り、高い事務能力を認められ、ドイツに駐在した。事実上の留学で、出世コースだった。日本では立憲政友会と憲政会(後の立憲民政党)の政党内閣時代が続き、軍の影響力は弱まり、軍縮も進んだ。政党は「軍人官僚内閣への後戻りはない」と油断し、政争に明け暮れていた。

世界恐慌の影響で日本も不況に陥ったが、政党内閣は十分に対応できなかった。陸軍内部では不況で疲弊する農村の復興を要求する皇道派と、軍としての統制を重視する統制派の対立が激しくなる。東条は統制派に属し、人事抗争の影響も受けて、満州に駐在する関東軍の憲兵隊長に転属した。

格下とみられていたポストだが、1936年の2.26事件で満州の反乱部隊を手際よく取り締まり、評価を高めた。この事件で上層部が大量に退役したこともあり、その後はとんとん拍子に出世の階段を駆け上り、1938年には陸軍次官、1940年7月には陸軍大臣に就任した。

陸軍教育のあり方については、昭和天皇が「陸軍はすべて物事を主観的に見る。その伝統は幼年学校以来の教育が偏っているからだ。手段を選ばず独断専行をはき違えた教育」と痛烈に批判したこともあるが、東条はその陸軍の代表となった。

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