北方領土の起源 プーチン大統領初訪問の背景と波紋

2026.08.28教養講座

*** 今週の教養講座(北方領土問題の起源①)

プーチン大統領が北方領土を初めて訪問しました。高市首相が抗議したのは当然の措置ですが、ナショナリズムをぶつけ合っているだけで解決しないのも厳しい現実です。2国間関係にとどまらない国際的な視点、国家の論理だけでなく住民の論理も必要でしょう。北方領土問題の歴史的な起源と現実を考えます。

1回 北方領土とはどんな島だったのか――海とともに暮らした人々

北方領土という言葉を聞くと、まず「日本とロシアが争っている島」というイメージを持つ人が多いだろう。しかし、領土問題として考える前に知っておきたいことがある。そこにはかつて、多くの人々の日常生活があったという事実である。

北方領土と呼ばれるのは、北海道の北東に位置する歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島である。四島の総面積は約5003平方キロで、福岡県とほぼ同じ広さを持つ。最も北海道に近い歯舞群島の貝殻島は、根室半島の納沙布岬からわずか3.7キロほどしか離れていない。遠い異国の島というより、北海道東部のすぐ沖合に連なる島々なのである。

1945年8月15日の時点で、四島には1万7291人の日本人が暮らしていた。最も人口が多かったのは国後島の7364人で、歯舞群島5281人、択捉島3608人、色丹島1038人だった。そこには漁師だけでなく、その家族、商店を営む人、学校の教師、役場の職員など、さまざまな人が暮らしていた。

島の生活を支えていたのは海である。周辺はサケ、マス、カニ、昆布などに恵まれた豊かな漁場だった。国後島では漁業のほか、カニなどを加工する缶詰工場や林業も盛んだった。国後島から根室まで、船によって約3時間半で結ばれていたという。北方四島は孤立した土地ではなく、根室をはじめとする北海道東部との経済的、人的なつながりを持つ生活圏だった。

一方、この地域には日本人が暮らす以前からアイヌの人々が生活し、千島列島一帯を移動しながら漁猟や交易を行ってきた歴史がある。ロシアは18世紀以降、シベリアから太平洋側へ進出した。この地域の歴史を日本とロシアという2つの国家だけで説明するのではなく、それ以前から存在した人々の暮らしを考える必要もある。

近代国家としての日露両国が国境を明確にしたのは1855年の日露和親条約だった。択捉島とウルップ島の間を国境とすることが確認され、国後島と択捉島は日本側、ウルップ島以北はロシア側とされた。日本政府は現在、この歴史を北方四島に対する領有権主張の重要な根拠としている。 一方、ロシアは1945年の第二次世界大戦の結果として四島がソ連領となったという立場を取っており、現在も認識は一致していない。

しかし、1945年以前の島民にとって、毎日の生活の中心が「領有権」だったわけではない。漁に出て、魚を加工し、子どもが学校へ行き、家族が暮らす。それが普通の日常だった。北方領土問題を冷静に考えるためには、この点から出発したい。国家にとって島は国境であり領土である。しかし、そこに住む人にとって島は家であり、仕事場であり、学校であり、墓のある故郷である。1945年、その日常が大きく変わることになる。次回は、日本の敗戦前後、北方の島々にソ連軍が進出した数週間に何が起きたのかを、人々の視点から追っていく。

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*** 今週の教養講座(北方領土問題の起源②)

2回 1945年夏、北方の島々で何が起きたのか――ソ連軍の侵攻

1945年8月15日、日本では昭和天皇の玉音放送が流れ、多くの人が「戦争が終わった日」と記憶している。しかし、日本列島の北方では、その後も戦闘とソ連軍の進出が続いた。北方領土問題を理解するには、この8月から9月にかけて何が起きたのかを時間の流れに沿って見る必要がある。

当時、日本とソ連の間には1941年に締結された日ソ中立条約があった。有効期間5年の条約だったが、ソ連は1945年4月、翌年以降は延長しないと日本に通告していた。一方、2月のヤルタ会談では、米英ソ首脳がソ連の対日参戦について秘密裏に合意していた。日本はヤルタ協定の当事国ではなく、この協定だけで領土帰属が法的に確定したわけではない問題も残るが、ドイツ降伏から約3か月後の8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告し、翌9日、満州、南樺太などで攻撃を開始した。

日本政府は8月14日にポツダム宣言受諾を決め、15日、国民に敗戦が伝えられた。しかし、広大な戦場ですべての軍事行動が同時に止まったわけではなかった。北方では、むしろこの後に大きな戦闘が起きる。8月18日未明、ソ連軍は千島列島最北端の占守島への上陸を開始した。カムチャツカ半島のすぐ南にある島である。日本はすでに降伏を決め、現地部隊も武装解除に向かう状況にあったが、ソ連軍の上陸によって戦闘が発生した。戦車部隊も投入され、日ソ双方に多数の死傷者が出た。8月15日を過ぎてから日本軍とソ連軍が本格的に戦ったという事実は、「終戦」が一瞬で実現したものではなかったことを示している。

その後、ソ連軍は千島列島を南下した。8月28日には択捉島へ進駐し、9月1日に国後島と色丹島、9月3日には歯舞群島に達し、9月5日までに四島全体を占領した。島民にとって、事態は国家間の外交問題ではなく生活そのものの激変だった。日本が降伏したと聞いて安堵した人もいただろう。しかし間もなく外国の軍隊が島に現れた。言葉の通じない兵士を目にし、「これから自分たちはどうなるのか」「家や漁場は守られるのか」と不安を感じたことは想像に難くない。一部の住民は自ら船で北海道へ脱出したが、多くは島に残った。

ソ連側から見れば、対日参戦は第二次世界大戦最後の軍事作戦であり、南樺太や千島列島への進出は連合国間のヤルタ協定を背景とする戦後処理の一環だった。現在のロシアも、四島の領有を第二次世界大戦の結果として位置づけている。一方、日本側は、択捉、国後、色丹、歯舞は日本が戦争によってロシアから獲得した領土ではなく、ソ連による占領によって初めて日本の統治から離れたと考える。ここに両国の歴史認識の大きな隔たりがある。

国家の論理とは別の論理もある。国境や支配する国家が変わるとき、最も直接的な影響を受けるのは、そこに暮らす普通の人々だということである。 1945年夏、北方の島々に暮らしていた約1万7000人の日本人は、その現実に突然直面した。やがて彼らの多くは、長年暮らした家や漁場、墓を残して島を離れることになる。次回は、その「故郷喪失」の過程を見ていきたい。

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*** 今週の教養講座(北方領土問題の起源③)

3回 故郷を失った17000人――島民の引き揚げと戦後

1945年8~9月、ソ連軍が択捉、国後、色丹、歯舞群島へ進出したことで、島民の生活は大きく変わった。しかし、日本人住民が占領と同時に全員島外へ追い出されたわけではない。しばらくの間、日本人と新たに入ってきたソ連側の人々が同じ島で暮らす時期があった。この過程を見ると、領土問題がそこに住む人々に何をもたらすのかが見えてくる。終戦時、北方四島には1万7291人の日本人が暮らしていた。漁業を中心に、商店や工場、学校、役場などがあり、家族の日常が営まれていた。ソ連軍が進駐すると、日本の行政機構は次第に機能を失い、島々はソ連側の統治へ移っていった。

占領直後の状況は島や地域によって異なった。日本人住民はそのまま自宅で生活する場合もあれば、ソ連兵や新しく移住してきた住民との同居を求められる場合もあった。言葉も制度も違う人々が突然同じ地域で生活することになったのである。一方で、住民とソ連側の人々の間に日常的な交流が生まれた例も伝えられている。占領という政治的事実と、そこに生きる個人同士の関係は必ずしも同じではなかった。

将来を不安に思い、ソ連軍の本格的な統治が進む前に島を脱出した人もいた。小さな漁船などで根室方面を目指す航海には危険が伴った。それでも北海道へ渡ったのは、今後も島で暮らせる保証がなかったためである。残った住民も、やがて島を離れることになる。1946年以降、ソ連は北方四島を自国の行政制度に組み込み、ロシア人を中心とするソ連国民の移住が進んだ。日本人住民の多くは1947年から1948年にかけて、樺太での収容生活などを経て日本本土へ引き揚げたり、強制退去されたりした。北方四島で続いてきた日本人社会は姿を消した。

引き揚げれば、それで生活が元に戻るわけではない。北海道に着いた人々の中には、家も仕事も財産も失い、一から生活を立て直さなければならない人がいた。漁業者にとって海や漁場を失うことは、住居を失うだけでなく生計の手段を失うことでもあった。さらに先祖の墓を島に残した人も多かった。「領土を失う」という国家の言葉は、個人に置き換えれば、家、仕事、地域社会、思い出を失うことでもあった。

その後、元島民たちは北方領土返還を求める運動を続けた。また、墓参や故郷訪問を望む声も強かった。1990年代以降には、日本人と四島在住のロシア人とのビザなし交流なども行われた。そこでは領有権を争う国家とは別に、かつて島に暮らした人と現在暮らす人が直接顔を合わせる機会が生まれた。現在、四島にはロシア人住民の生活がある。彼らの多くにとっても、島は政治的な「領土」以前に、生まれ育ち、家族と生活する故郷である。この事実も無視することはできない。

北方領土問題には、異なる時代を生きた人々の2つの「故郷」が重なっている。日本の元島民が故郷を失った歴史を記憶すると同時に、現在そこで生活するロシア人の存在も見る。国家の領有権と、そこに暮らす人間の生活を分けて考えることが、領土問題をナショナリズムだけで捉えないための大切な視点なのではないだろうか。

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*** 今週の教養講座(北方領土問題の起源④)

4回 なぜ80年以上たっても解決しないのか――日本とロシア、異なる2つの論理」

北方領土問題が難しいのは、日本とロシアが単純に「同じ島を欲しがっている」からではない。両国がそれぞれ異なる歴史を出発点として、自国の主張には根拠があると考えているからである。問題を冷静に見るには、どちらか一方の物語だけでなく、双方が何を根拠としているのかを知る必要がある。

日本側が重視する出発点は1855年の日露和親条約である。この条約では択捉島とウルップ島の間に国境が定められ、択捉島より南は日本側となった。1875年の樺太千島交換条約では、日本が樺太への権利を放棄する代わりにウルップ島以北の千島列島を得た。このため日本政府は、国後・択捉は戦争によってロシアから奪った土地ではなく、もともと日本領だったと主張している。

ロシア側が重視するのは1945年である。第二次世界大戦末期、米英ソはヤルタ協定で、ソ連の対日参戦と引き換えに「千島列島をソ連に引き渡す」ことなどを合意した。ソ連軍は8月に対日戦争へ入り、その後北方四島を占領した。ロシアは、これを第二次世界大戦の結果として確定した領土変更と位置づけている。ロシアにとって対独戦を中心とする第二次世界大戦の勝利は、膨大な犠牲を払った歴史と結びついており、戦後国境の見直しには強い抵抗がある。

問題を複雑にしたのが1951年のサンフランシスコ平和条約だった。日本はこの条約で「千島列島」に対する権利を放棄した。しかし、その千島列島に国後・択捉が含まれるのか、さらに放棄された島々がどの国に帰属するのかについて、後に争いが残った。しかもソ連はこの条約に署名しなかった。日本政府は北方四島を放棄した千島列島には含めない立場で、とりわけ国後・択捉が「千島列島」に含まれるかについて、歴史的・法的議論が続いた。

それでも両国は一度、解決に近づいた。1956年の日ソ共同宣言で国交を回復し、ソ連は平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すことに同意した。しかし国後・択捉について合意できず、平和条約は締結されなかった。その後も日本とソ連、さらにロシアとの交渉は繰り返されたが、最終的な解決には至っていない。

ここで注意したいのは、「どちらが絶対に正しいか」という問いだけで歴史を見ないことである。国際政治では、歴史的経緯、条約の解釈、戦争の結果、安全保障、国内世論などが複雑に絡む。日本には、1945年まで日本人が生活していた故郷を取り戻したいという感情がある。一方、現在の島にはロシア人社会が形成され、すでに何世代にもわたって生活している人々がいる。

さらに領土問題はナショナリズムと結びつきやすい。「一寸たりとも譲れない」という主張は国内では支持を得やすいが、相手国にも同じような感情があるため、外交上の妥協を難しくする。北方領土問題を理解するために必要なのは、相手の主張に同意することではない。自国の主張を知ると同時に、なぜ相手も自国が正しいと考えるのかを理解することである。2つの歴史認識を並べて初めて、80年以上解決できなかった理由が見えてくる。

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*** 今週の教養講座(北方領土問題の起源⑤)

第5回 北方領土をこれからどう考えるか――必要な多角的視点

北方領土問題は現在、日本とロシアだけを見ていても全体像を理解できない。背後には米国、中国、ウクライナ情勢など大きな国際政治がある。四島の将来は、日露関係だけでなく、東アジアの力関係によっても左右される問題なのである。

歴史的にも第三国は深く関係してきた。1945年のヤルタ会談では、米国のルーズベルト、英国のチャーチル、ソ連のスターリンが、ソ連の対日参戦と引き換えに千島列島をソ連へ引き渡すことなどを合意した。1956年の日ソ交渉でも、日本の背後には冷戦と日米関係があった。北方領土問題は最初から純粋な二国間問題ではなかったのである。

現在も最も重要な第三国は米国である。日本は米国と安全保障条約を結び、国内に米軍基地がある。ロシアから見れば、島の帰属が変わる可能性を考える際、日米同盟を無視することはできない。特に択捉、国後周辺は太平洋とオホーツク海を結ぶ位置にある。ロシアはオホーツク海を戦略原子力潜水艦の重要な活動海域としており、その周辺の防衛を重視している。

そこへ中国という要素が加わる。近年、中国とロシアは軍事面を含め戦略的な連携を強め、日本周辺でも両国の軍事活動が行われている。日本の防衛白書も、中国との戦略的連携を伴うロシアの軍事動向を安全保障上の強い懸念としている。日本から見ればロシアは北、中国は西南に位置する。このため北方領土問題も、日米同盟、中露関係、東アジア全体の安全保障という大きな構図の中に置かれるようになった。

さらに2022年のロシアによるウクライナ侵略が状況を変えた。日本はG7諸国と歩調を合わせてロシアへの制裁を実施した。これに対しロシアは同年3月、日本との平和条約交渉を継続しないと表明し、四島交流なども停止した。現在、領土交渉再開の見通しは立っていない。

国際政治だけを見ていると忘れがちなのが、人々の時間である。元島民は高齢化している。「もう一度故郷へ行きたい」「墓参をしたい」という願いには残された時間が少ない。一方、現在の四島には、そこで生まれ育ったロシア人とその家族の生活がある。北海道の漁業者にとっては、周辺海域で安全に漁ができるかどうかも切実な問題である。日本政府も、領土問題とは別に墓参や漁業など隣国間で対処すべき問題があるとしている。

将来を考えるとき、「四島か二島か」「返還か現状維持か」だけでは十分ではない。米国との同盟、中国とロシアの関係、ロシアの安全保障、現在の島民の生活、元島民の故郷への思いなどを同時に考える必要がある。

領土問題は、ともすれば「われわれの土地」と「彼らの土地」という感情を刺激する。しかし歴史を学ぶ目的は、感情を強めることだけではない。なぜ日本は返還を求めるのか、なぜロシアは応じないのか、なぜ米国や中国を含む国際情勢が影響するのか。その3つを同時に考えることが重要である。北方領土は、国境とは何か、戦争の結果を後世はどう扱うべきか、そして国家の利益と人々の生活をどう両立させるかを考えさせる難問でもある。