太宰治の『津軽』

2026.07.10教養講座

*** 今週の教養講座(太宰治の「津軽」①)

 今週は太宰治の自伝的小説「津軽」のクライマックス場面を紹介します。太宰は青森県金木町の素封家の家に生まれましたが、左翼運動や薬物中毒で乱れた私生活を送り、実家では疎まれた存在でした。幼少期は越野タケという女性に子守をしてもらって育ち、母よりも心を寄せていました。小説家として名を成し、津軽半島を巡る旅に出て、小泊村に住むタケを探そうとします。村の運動会でやっとタケに出会うと・・・。小説は戦時中の1944年11月に出版され、太宰の最高傑作と評価する人もいます。太宰は1948年6月に自殺しました。再会した場所には記念館と銅像(写真=現中泊町)があります。

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お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。「越野たけ、という人を知りませんか」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。「こしの、たけ、ですか」。国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野という苗字の家がたくさんあるので」「前に金木にいた事があるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです」私は懸命である。「ああ、わかりました。その人なら居ります」「いますか。どこにいます。家はどの辺です」

私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらいの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカーテンがおろされてある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄ったら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかっているのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いずれも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭った。引っ越した、なんて事は無かろう。どこかへ、ちょっと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっとの外出に、店にカーテンをおろし、戸じまりをするなどという事はない。二、三日あるいはもっと長い外出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。

家さえわかったら、もう大丈夫と思っていた僕は馬鹿であった。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のあるはずは無かった。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向いの煙草屋に入り、越野さんの家には誰もいないようですが、行先をご存じないかと尋ねた。そこのやせこけたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげに答えた。私は勢い込んで、「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この近くですか、それとも」。すぐそこだという。この路をまっすぐに行くと田圃に出て、それから学校があって、運動会はその学校の裏でやっているという。「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ」「そうですか。ありがとう」

教えられたとおりに行くと、なるほど田圃があって、その畦道を伝って行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立っている。その学校の裏に廻ってみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るような気持というのであろう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行われているのだ。まず、万国旗。着飾った娘たち。あちこちに白昼の酔っぱらい。そうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎっしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなったと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまでむしろで一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、そうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑っているのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。

たしかに、日出ずる国だと思った。国運を賭しての大戦争の最中でも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑いと闊達な舞踏をこの本州のへき地において直接に見聞する思いであった。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというようなおとぎ話の主人公に私はなったような気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならない。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬っぺたの赤いひとであった。右か、左のまぶたの上に、小さい赤いほくろがあった。私はそれだけしか覚えていないのである。会えば、わかる。その自信はあったが、この群集の中から捜し出す事は、むずかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しようがないのである。私はただ、運動場のまわりを、うろうろ歩くばかりである。

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*** 今週の教養講座(太宰治の「津軽」②)

「越野たけというひと、どこにいるか、ご存じありませんか」。私は勇気を出して、ひとりの青年にたずねた。「五十くらいのひとで、金物屋の越野ですが」。それが私のたけについての知識の全部なのだ。「金物屋の越野・・・」。青年は考えて、「あ、向こうのあのへんの小屋にいたような気がするな」「そうですか。あのへんですか?」「さあ、はっきりは、わからない。何だか、見かけたような気がするんだが、まあ、捜してごらん」

その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざったらしく打ち明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言い、その漠然と指差された方角へ行ってまごまごしてみたが、そんな事でわかるはずはなかった。とうとう私は、昼食最中の団欒の掛小屋の中に、ぬっと顔を突き入れ、「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらじゃございませんか」。「ちがいますよ」。ふとったおかみさんは不機嫌そうに眉をひそめて言う。「そうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかったでしょうか」。「さあ、わかりませんねえ。何せ、大勢の人ですから」

私はさらにまた別の小屋をのぞいて聞いた。わからない。さらにまた別の小屋。まるで何かにつかれたみたいに、たけはいませんか、金物屋のたけはいませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまわったが、わからなかった。二日酔い気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行って水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジャンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福そうな賑わいを、ぼんやり眺めた。

この中に、いるのだ。たしかに、いるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせているのであろう。いっそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会」とでも叫んでもらおうかしら、とも思ったが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだった。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでっち上げるのはイヤだった。縁が無いのだ。神様が逢うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。

私は、ジャンパーを着て立ち上った。また畦道を伝って歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待っていたっていいじゃないか。そうも思ったが、その四時間、宿屋の汚い一室でしょんぼり待っているうちに、もう、たけなんかどうでもいいような、腹立たしい気持になりやしないだろうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢いたいのだ。しかし、どうしても逢う事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。

はるばるここまでたずねて来て、すぐそこに、いまいるという事がちゃんとわかっていながら、逢えずに帰るというのも、私のこれまでの要領の悪かった生涯にふさわしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのように、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰ろう。

考えてみると、いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ逢いたいだのなんだの、それだからお前はだめだというのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思うのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違って、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだろう。しっかりせんかい。

私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それっきりで、あとはないという事であった。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらいあいだがある。少しおなかもすいて来ている。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ入って、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが」と言い、また内心は、やっぱり未練のようなものがあって、もしこの宿が感じがよかったら、ここで四時頃まで休ませてもらって、などと考えてもいたのであるが、断られた。きょうはうちの者がみな運動会へ行っているので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷たい返事をしたのである。

いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらい休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それじゃあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行って、ひと知れず今生(こんじょう)のいとま乞いでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはずれている。そうして戸が二、三寸あいている。

天のたすけ! と勇気百倍、グワラリという品の悪い形容でも使わなければ間に合わないほど勢い込んでガラス戸を押しあげ、「ごめん下さい、ごめん下さい」。「はい」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、「金木の津島です」と名乗った。

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*** 今週の教養講座(太宰治の「津軽」③)

少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたという事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀がなくなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたっていい。私は、この少女ときょうだいだ。

「ああ、よかった」。私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」。「そう」。少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついてうなずき、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰ったの」。気の毒だが、その腹いたが、よかったのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまえたからには、もう安心。大丈夫、たけに逢える。もう何が何でもこの子から離れなければいいのだ。

「ずいぶん運動場を捜し廻ったんだが、見つからなかった」。「そう」と言ってかすかにうなずき、おなかをおさえた。「まだ痛いか」。「すこし」と言った。「薬を飲んだか」。黙ってうなずく。「ひどく痛いか」。笑って、かぶりを振った。「それじゃあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行ってくれよ。お前もおなかが痛いだろうが、僕だって、遠くから来たんだ。歩けるか」。「うん」と大きくうなずいた。「偉い、偉い。じゃあひとつたのむよ」。うん、うんと二度続けてうなずき、すぐ土間へ降りて下駄をつっかけ、おなかをおさえて、からだをくの字に曲げながら家を出た。

「運動会で走ったか」。「走った」。「賞品をもらったか」。「もらわない」。おなかをおさえながら、とっとと私の先に立って歩く。また畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へ入り、すぐそれと入れ違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。

「修治だ」。私は笑って帽子をとった。「あらあ」。それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、入って運動会を」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ」とたけのかたわらに坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。

けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思う事がなかった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。

先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。そんな有難い母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。

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*** 今週の教養講座(太宰治の「津軽」④)

たけの頬は、やっぱり赤くて、そうして、右のまぶたの上には、小さいけし粒ほどの赤いほくろが、ちゃんとある。髪には白髪もまじっているが、でも、いま私のわきにきちんと坐っているたけは、私の幼い頃の思い出のたけと、少しも変っていない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、けれども、私の思い出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。

これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めていたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公していた頃にも締めていたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらったものだという事である。そのせいもあったのかも知れないが、たけは、私の思い出とそっくり同じ匂いで坐っている。たぶんひいき目であろうが、たけはこの漁村の他の母たちとは、まるで違った気位を持っているように感ぜられた。

着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしっかりしている。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持っている。私も、いつまでも黙っていたら、しばらくたってたけは、まっすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。

たけは、ふと気がついたようにして、「何か、たべないか」と私に言った。「要らない」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。「餅があるよ」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。「いいんだ。食いたくないんだ」。たけは軽くうなずいてそれ以上すすめようともせず、「餅のほうでないんだものな」と小声で言って微笑んだ。

三十年ちかく互いに消息が無くても、私の酒飲みをちゃんと察しているようである。不思議なものだ。私がにやにやしていたら、たけは眉をひそめ、「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えてねえ」と言った。油断大敵の例である。私は笑いを収めた。

私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上って、「竜神様(りゅうじんさま)の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘った。「ああ、行こう」。私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登った。砂山には、スミレが咲いていた。背の低い藤のつるも広がっている。たけは黙ってのぼって行く。私も何も言わず、ぶらぶら歩いてついて行った。

砂山を登り切って、だらだら降りると竜神様の森があって、その森の小路のところどころに八重桜が咲いている。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、堰を切ったみたいに能弁になった。

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*** 今週の教養講座(太宰治の「津軽」⑤=出会いの銅像写真を再添付)

「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔話を語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一さじずつ養わせて、手かずもかかったが、愛(め)ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ」と一語、一語、言うたびごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり取っては捨て、むしり取っては捨てている。

「子供は?」。とうとうその小枝もへし折って捨て、両肘を張ってモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人」。私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。「男? 女?」。「女だ」。「いくつ?」。次から次と矢継早に質問を発する。

私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気付いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原における中畑さんであり、金木におけるアヤであり、そうして小泊におけるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。

さて、古聖人の獲麟(編集部注:かくりん=物事や人生の終わり)を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友(同:かくゆう=辞書になし)の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。