千住博の「芸術とは何か」

*** 今週の教養講座(千住博の芸術論①)
日本画家の千住博さんは、「人間は、イマジネーションをコミュニケーションすることによって生きている」と考えています。人間という複雑で混沌とした存在が、人や自然との関係を良くしようとして生み出したものが「芸術」と言います。代表作は「ウォーターフォール」で、絵の具を上から垂らして滝の様子を描いています。軽井沢の千住博美術館や高野山金剛峰寺、京都・大徳寺、羽田空港などにあります。千住さんの著書「芸術とは何か――千住博が答える147の質問」(祥伝社新書、2014)の「芸術と画家」「芸術と教育」の2章から、10の質問を選び、独自の芸術論を味わいます。
問:芸術家とは才能ですか、技術ですか? 芸術家とは技術です。芸術家とは、イマジネーションを何とかしてコミュニケーションしようとする人たちのことですから、伝えようとするある基礎的な技術が必要です。例えばピアノの前に座っても弾き方がわからなくてはどうにもなりません。映画監督をしたくても何をどうしたらいいかわからなくては話になりません。絵画も然り、文学や料理も同じことです。
技術がなくては自分の意志を伝えようとした時、ある一定の成果が挙げられません。確かに、技術がなくて表現を行う例も存在しますが、それは例外であり、そのまた例外として、優れた作品になる場合が極めて稀にだけ存在していると言っていいでしょう。
つまり、芸術家であることと才能は同列に比較して論じる問題ではないのです。きちんと伝える技術を持つことがまず前提で、加えて才能があるごくわずかの人々が、リーダーとなり歴史をけん引し、多くの芸術家たちを引っ張ってきたということです。
問:芸術家は時代とともに生きるのですか、時代から超越していますか? 芸術家は時代とともに生きて、そして超越的な作品も残すことを目指すのです。時代から超越して生きていると、私の感じでは超越的な作品を生み出すことはどうも難しいようです。芸術家が誰とも変わらない同じ一人の人間として、その時代を普通に生きて、何が美しいか、何に感動するかを、人々を代表して描き、代弁し啓蒙する意識によって、人類の美術史は育ってきたように思います。
人間は1人では生きられません。赤ん坊は物理的条件が完璧に備わっていても、1人にしておくとやがて死んでしまうそうです。人間はコミュニケーションを必要としています。何しろ「人の間」と書いて「人間」なのですから。人と人の間には会話が生まれ、コミュニケーションが生まれ、そして普遍的な人間の心を交換して作品が生まれていくのです。時代や社会から超越してしまうと、この人間という基本が怪しくなるのです。
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*** 今週の教養講座(千住博の芸術論②)
問:芸術家にとって、保守と革新のどちらが大事ですか? 両方です。保守の意識がなくては、伝統や学問の習得などアカデミックな部分での十分な成果は得られません。保守を徹底的に学ぶことによって、自分が何をしなくてはならないか、どこが問題かという、やらなくてはならないそれぞれの独自色を持った革新の方向が見えてくるものです。
初めから革新だけですと、自分の作品と過去の美術史上の作品のつながりが共通項を失います。保守として物事を学ぶことは、時として面白いことばかりではありません。忍耐が必要な場合も多いものです。しかし芸術にはそのようなことも必要なのです。そうすることによってベースが築かれ、問題点が浮かび上がり、それが個性的で革新的な作品を生んでいます。
何でも好きに自由に描いていいと言われると、何が好きか、自分にとって自由とは何かが理解できず、遊びみたいになり、他人から見ると意外につまらない作品になるものです。
問:芸術家は、弱いが素直な人、強いがひねくれた人のどちらが向いていますか? 芸術家は、強くて素直な人しか務まりません。弱い人は、無理解、苦労、批判を繰り返されるうちに、消えていきます。ひねくれた人は、人がどんなに良いと言っても信じないし、悪いところを指摘されても聞きません。ですから作品はよくならないし、人間的にも結局、人から嫌われてやっていけません。
ひねくれ者だけではだめですが、それを除けば本当に普通でいいのです。時に弱く、時に強く、そして素直なのが人間というもので、このような人が人々から愛され、可愛がられ、慕われます。作品は作者の鏡ですから、そのような人が描いた作品は、とても愛らしく、人間を映し出し、人々から可愛がられる作品だと思います。
逆に作品から人を見ると、ゴッホはそうひねくれた人ではなかったと思います。ただ、不器用な生き方しかできなかっただけなのでしょう。生き方が不自由とひねくれていることは違います。その点、作品を見る限り、ダリなどは相当にひねくれていたと思います。
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*** 今週の教養講座(千住博の芸術論③)
◎芸術家は、破天荒、きまじめ、地味な人のどれが向いていますか? 破天荒、火宅、きまじめ、地味というのは、自分は選んでそうなっているわけではなく、仕方なくそうなってしまっているもので、本人もそれを落ち込んだりしながら、抱え込んで生きているものです。
そのような人が芸術家を目指すなら、その人はそのような芸術家となり、才能があれば優れた作品を残すのです。その持って生まれた属性は、個性の一部と考えるしかないでしょう。個性とは後からつけ足すものではなく、
どうしようもなくあるもので、あきらめながら、時として自己嫌悪に陥りながら、つき合っていくしかないものなのです。どうせあるなら、それをうまく利用するしかないですね。
◎芸術家にも、市民感覚、市民的常識は必要ですか? 芸術は人間が人間に対して行う行為ですから、市民的感覚、市民的常識は当然必要となります。問題はその内実です。むしろこれを自ら中心となって創り、指し示していく意識が必要です。芸術とは啓蒙であり、教育でもあります。権力やメディアの趨勢に押し流されるのではなく、より人間的な真実や新しい角度の見方を提言し、未来の人類のためによりよい時代を作っていく意識こそ芸術家の人生です。
市民的感覚、市民的常識の持ち主が、キラリと輝く歯を内側に隠し持つ。これが人々の心にリアリティをもって届き、人々に刺激を与え、作品を通して「目を覚ませ」と同じ側に立って訴える。それが優れた作品を生む心構えなのではないでしょうか。
◎芸術家に向く性格、向かない性格はありますか? 絵描きだったら、何より絵を描くことが好きな人。作家だったら、何より小説を書くのが好きな人。作曲家だったら、何よりも作曲が好きな人。それも諦めずにコツコツ行う。これに尽きると思います。
芸術的行為とは、人間的行為と言い換えてもいいものです。人と人の間のコミュニケーションを行い、何とかして仲良くやろうとする知恵。分かりあえない人たちが、分かり合う知恵。人の辛さや痛みを分かち合い、もちろん喜びも分かち合うことができる。同じ人間としての意識が芸術ですから、芸術家に向かない人とは、人の話も聞かず、人と仲良くしようとも思わず、他人の痛みも分かろうとせず、他人の存在を必要としない。このような人は、あまりいい芸術家にはならないと思います。
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*** 今週の教養講座(千住博の芸術論④)
◎子どもの発想は、本当に優れていますか? 基本的には優れていると思うことが多いです。なぜかと考えてみると、下心、計算、策略がなく、無垢な発想だからです。大人なら一手先まで考えて、こう言ったらどうかなど損得で考えがちですが、子どもにはそれがありません。
電車に乗っていたり、ビーチで寝転がっていたりすると、知らない子どもの会話が、聞くとはなしに耳に入ってくることがありますが、汚れていないというか、純粋だなと感動することがあります。混ざり気がない、濁っていないものを優れたもの、優れた発想と定義すると、まさに子どもの発想には、大人が失ってはいけない大切な原点を見せられ、感じさせる思いがあります。私は「今でもそうあらねば」と反省するのです。
◎天才は存在しますか? 天才は存在します。わかりやすい例で言いますと、ポール・マッカートニーとジョン・レノンが生んだ様々な名曲です。「レット・イット・ビー」にしても、「ミッシェル」にしても、普通はあんな曲は浮かびませんよね。
最も単純で、普通で、最も身近な組み合わせの中に、いわば自分のすぐ隣に、考えられない美しい宝物が、一般の人たちには見えないように隠れている。それを何かの拍子に、さっと当たった光で一瞬見ることができて、人々のもとに引っ張り出せる。それが天才というものだと思います。
絵も同様に、後から考えたら、「こうすることは最も自然だったし、身近にこんなヒントがいっぱいあった」ことを純粋な感性だからこそ、見極めることができ、それに手が出せた。そんな天才たちの手による絵が、美術史を作ってきました。彼らの特徴は決して奇をてらっていないことです。最も素直にあるがままに描き出す。これが共通した天才の作品から受ける印象です。
もう一つ、それは決して暗くならない、暗くなれないと言った方が良いでしょうが、底抜けの楽天主義とも言うべき開放感がある場合が多いことです。モーツァルトもピカソもその一例です。切り口の独創性を見極める目、耳、そして誰とも変わることなく人間の良心に基づいて生きている。そんな感じを天才たちの共通項として私は感じます。
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*** 今週の教養講座(千住博の芸術論⑤)
◎美大、芸大の教育で画家になれますか? 基本的にはなれません。1学年あたり、何人の画家が世に出ているかを考えれば明らかで、よくて年に1人か2人です。その割合から考えれば、美大、芸大に、画家になる可能性を求めるべきではないということになります。
画家になる人は、「画家になんかなるな」と言われてもなってしまうタイプで、そのような人たちが画業に専念するうえで、最低限必要な基礎力を学ぶ場が、美大、芸大なのです。美大、芸大に行ったからといって、皆が画家になれるわけではありません。とはいえ、美大、芸大に行かずに基礎をきちんと学ぶことは、とても難しいですし、仲間も必要です。
美大、芸大は、芸術的発想法や美術家としての基礎を身につけるところで、原則的にはそれ以上を求めるべきではないということです。ただし、すぐれた指導者がいる場合は、別です。人との出会いによって、潜在的な才能に目覚め、思いがけず画家になっていく人たちも、確実にいます。しかし、残念ながら、あまり一般的ではありません。
◎芸術は他人に教えることができますか? できます。「芸術は教えられるものではない」という指導者がいるとしたら、その指導者自身が、芸術についてよくわかっていないのです。ただし、「よい作品を描くにはどうしたらいいか」は、教えることができません。その人が何に出会ってきたかという人生の日々、持ち合わせる哲学や性格の問題に関わることだからです。
しかし、どうしたらもう少し良くすることができるかという悩みに対しては、アドバイスをすることはできます。客観性をもって、調和が取れていなかったり、何かの形や色が飛び出していたり、つまり不自然な箇所を指摘する行為は可能だからです。
芸術とは、伝達不可能とも思えるイマジネーションを何とかして、というか、あらゆる手段を使って、他者に伝えていこうとする行為のことです。料理、文章、絵画、音楽、時には踊ったり劇を演じたり、映画にしたり、土をこねたり、石を削ったりして、見えないものを見えるようにする、聴こえない音を聴こえるようにするのが、芸術家の仕事です。
芸術とはすなわち、人と人の心のコミュニケーションのことなのです。分かり合えない他者となんとか分かり合おうと、「絆」をつくっていく行為のことなのです。人間らしく生き、心を表現することが芸術であり、芸術という言葉は、つまり人間という言葉に置き換えられるのです。芸術はあらゆる意味において、教育が可能であるといえるのです。
